もっとこう、落ち着いてちゃんと考えたらいいのにね。

シャドウバースプレイヤーのちょもすさん可哀想。
シャドウバースの大会運営陣のバーカ。バーカ。バーカ。
まあ、シャドウバースやらないんですけどね。



ソシャゲとして今大人気らしいですよ。
シャドウバースをプレイしていて、あるいは気になっている方で、今回の騒動をご存知ない人は、どうぞ「シャドウバース」「ちょもす」で検索してくださいね。こういう会社が運営しているゲームなんだね、というのを知る良い切っ掛けにもなります。あとその大会のネット配信に出ていた有名実況者たちを嫌いになる可能性もありです。




そろそろ年末ですね。
毎年この季節になると紅白歌合戦の出演者をめぐって一波乱ありますね。
そういうのもひっくるめて年の瀬、風物詩。
誰かが言った、大いなるマンネリとは本当にその通りだと思います。
世の中に変わらない物などないし、変化が悪いことだとも思いませんが、それは放っておいても自然の流れで起こる事象が純粋な変化なのであって、「変えよう」とか「変えたい」と思ってもたらす行為には必ず衝突が生まれます。



何故、今このタイミングで和田アキ子さんが落選になるかなー。
あと一回出演すれば、40回という節目になったわけでしょう。
40という数字が節目かどうか、50の方が相応しいけども、キリはいいし。
いいじゃない、40回にしてからでも。
なんでダメだったんだろ。
そもそも落選の理由とか、あんまりはっきり表に出ないし、腑に落ちないですよね。
これまで39回も紅白を盛り上げてくれた人ですよ。
39回って言うと、39年ですよ。39年。
あの人のあのキャラクターですから、好き嫌い分かれるでしょうけども、
それ以上に優先しなきゃいけない人としての義理人情ってあると思います。
今回NHKにはその気概がなかった。
それは決定権を持つ人にないのか、NHKという組織自体になくなったのかは分かりません。
しかし、紅白歌合戦から昭和の大物を切り捨てていく行為は、今の日本ではまだ早過ぎる決断だと思います。
それこそ、あと10年もすればそもそも歌えなくなる人達がごろごろ出て来る事でしょう。
それまで大事に、一曲一曲を大切に歌ってもらって、日本人の年末を「安心感」で包み込んでほしかったなー。
今回こういう決定を下した人って、とても若い人か、若い世代に迎合する性格の人なんだろうなーという気がします。




放っておいても勝手に時代は変わります。
暖房器具も発達し、今はもう、冬場と言えば「炬燵」に「みかん」というセットは古臭いのかもしれません。
しかし、それでもまだ現役で演歌界、歌謡界のトップに君臨しているのは所謂「昭和の大物達」です。
その彼らを見て、私は育ちました。
見ると言っても、子供に演歌は分かりません。
全くもって好きではありませんでした。
それでも尚、子供の頃に聞いた演歌のヒット曲は2,3曲、いやもっと、口ずさむ事ができます。
それは年末の歌謡祭や紅白を家族で見て、テレビと一緒になって歌っていた親の横顔を見て育ったからです。
子供はアイドルを次かまだかと待ち望み、親は演歌を歌い出す。
11時くらいには年越しそばを食べ、紅白が終わると子供は寝る。
親はゆく年くる年を見て年を越す。
それが当たり前だった昭和に子供時代を過ごした私にとって、
今、紅白の顔触れを若返らせる事になんの興味もありません。




一方で、今10代20代の若者にとって、紅白歌合戦にどれほどの関心があるのでしょうか。今の若い世代が、20年前に若かった世代と同様に、大晦日に家族と一緒にテレビを見る、という事を昔と変わらず続けているでしょうか。
インターネットや録画機器が発達し、オンタイムでテレビの前に座らないと見れない番組という物がなくなりました。
友人はもちろん、見知らぬ不特定多数の人間と常時繋がれるようになった今、紅白より楽しい事が一杯あると思います。
40歳手前の私にすらそれくらい理解できます。
であるならば、今も紅白を見続けているのはおそらく40代以上の世代が多くを占めているのではないでしょうか。
40代以上の大人と、小学生くらいまでの子供、そして老人。
この世代がメインの視聴者で、あとはその年に出演するミュージシャンのファンが、出番の時だけ見る、という割合だと思います。
この推測が間違いでないとすれば、紅白に和田アキ子さんを出さない、という決断になんの意味も感じられないのはお分かりいただけると思います。




逆にですよ。
今年NHKと関りを持っていたにも関わらず、出演を辞退するアーティストもいます。
これは、良くないね。
なんだろう。ミュージシャン気取りが過ぎるというかね。
値打ちこくんじゃない、と言いますかね。
もともと、ずっと以前からツアーの日程が組まれていて、他所でカウントダウンライブをやるから無理です、という事なら仕方ないかなーと思いますけどね。
縁と所縁のあるミュージシャンはちゃんと出るべき。
断られたNHK側が不憫です。
ええええ。あんたらが断るのー?と思ったでしょうね。
紅白に出るとか出ないとか、レコ大獲る獲らないで値打ちが変わるような事、ないから。
歌は誰かに届けるものであって、その機会を自ら減らすような行為はただの格好つけに過ぎないと思えて、私は嫌いですね。




ただ、似合う・似合わない、は確かにあると思いますよ。
私なんかのドンピシャ世代だと、今でもXジャパンに紅白は似合わないと思ってしまいます。
西のcolor、東のXとしてビジュアル系から売れはしましたけど、楽曲としてはジャパメタに片足突っ込んでいるので、北島三郎の横に立っていると単純に違和感半端ないですよね。いくら丸くなったとは言え、今でもyoshikiの浮世離れ感は健在ですから。
東京ヤンキースとか、セックスマシンガンズとか、それこそベビーメタルとか、ブレイクするしないに限らず独自の世界で勝負している人は、仮にオファーが来ても「え?紅白?俺らが?出てもいいけど、大丈夫?」って思うでしょうね。
ただ今日本の歌謡界、J−POP界のメジャーシーンを見渡した時、紅白に出ると浮くくらい突き抜けている個性を持った人達ってあんまりいないんですよね。
だからどんどん出たら良いと思いますよ。
年に一回のお祭りですからね。
賑やかしでもなんでも、笑顔で日本の茶の間に手を振って歌ったらいいと、私なんかは思いますけどね。
それを見た今の子供達の記憶に、紅白歌合戦の幸せな思い出が刻まれていくわけですから。
なんかのインタビューで、バンプの藤原さんが「イノッチに名前呼ばれて楽しかった」と言っているのを読んで、なんか私まで嬉しかった。
あんなに研ぎ澄まされた感性で素晴らしい楽曲を作るミュージシャンにも、私と同じように昭和の香り漂う「紅白の特別感」が染み付いているんだなーと思えて、なんだか親近感が沸きました。





ええええーーーっと。
なんの話をしてたんでしたっけ。
そうそう、和田さんが今年は紅白に出ないというお話。
なんだかんだ言って私も紅白見てないんですけどね。
見ていたのは子供の頃だけで、少なくとも10代後半からはまともに見ていないと思います。
しかし今年娘が生まれたので、この子が大きくなって歌とか覚え始めたら、また「昭和の大晦日」に戻って来るのも、良いなーと今から楽しみにしています。
それまではもう少しの間、昭和の大物に頑張ってもらわないと今度は私が全くついていけない事になるので、よろしくお願いします。

世間の声などあるものか。

私がツイッターFacebookをやらない所為でしょうか。
録画したバラエティ番組以外テレビをほとんどみない所為でしょうか。
インターネットで配信されるニュースなど(事件・事故以外)ほとんどネタだろうと思い込んでいる所為でしょうか。
いわゆる「世間の声」という実態のない安易な表現に懐疑的です。



世間、などという生物はいないし、人間が何人以上集まった時、などという定義もない。
それでも扇動者はツイッターで見た匿名のつぶやきや2ちゃんねるの書き込みを拾って「世間の声」と呼ぶ。
そう呼ぶことで、彼らは自分の放つ言葉がいかにも広く庶民の間で共感されている認識であるかのように、読者を洗脳出来る。
しかも普段は政治経済、事件事故など根拠のある出来事をニュースとして伝えているのを隠れ蓑に、こと芸能スキャンダルやゴシップに関しては好き放題読者を煽って引っ掻き回しているように見える。



ひとしきり吹聴し回った後は少し落ち着いて、また世間が忘れそうになると名前を引っ張り出して来て叩く。
その繰り返し。
その被害者。
スマップの木村拓哉さん。
今もまた、来年4月に公開を控えた主演映画「無限の住人」を宣伝すると見せかけて、彼を叩いています。
叩いているのは「世間」で、自分はそれを伝えているだけであるかのように書いてはいるが、その実「世間」なんてものは存在しないのだから、叩いているのは記事にした人間自身だ。




私は今から木村拓哉さんの味方をします。
ファンではありません。
スマップの事も詳しくありません。
想像と独りよがりなお節介と経験則、独断と偏見をもって彼を擁護します。
スマップのファンとやらは彼を敵視しているらしいですし、
解散を決めた他のメンバー4人についてはネガティブキャンペーンを張らないくせに、
やたらとキムタクばかりを攻撃しているように「見える」ので、
私はそう見せている誰かを叩きます。
本当ならば、一番声を上げたいキムタク自身が沈黙しているので、
あえてここでまた名前を出すことは逆効果かもしれませんが、
そんな事を考えなきゃいけないような影響力のあるブログではないので、
私は勝手に木村さんを応援しています、とここで声を上げます。




来年公開される「無限の住人」という映画は、もともと漫画原作が存在します。非常に優れた画力と物語、テンポの良い台詞回しとユーモアが特徴のネオ時代劇と呼ばれた大傑作です。
その主人公はわけ合って不死身であり、わけ合って物語上ヒロインの用心棒だったりもします。
その原作設定をピンポイントで拾い上げて、

『「キムタクが用心棒? スマップも守れなかったのに?」との世間の声が上がっている。』

というニュースにされていました。
誰が上手い事言えと言った、という突っ込み待ちのつもりでしょうか。
もしかしたら本当に誰かがつぶやいたか、どこかかに書き込みをしたかもしれません。
それを見つけた記者は面白いと思ったんでしょうね。
あるいは自分で考えついて「イケル!」と思ったんでしょうね。



「クッソおもんないぞ」



とだけ返しておきますね。
スマップを守れなかった、などともし本当に思っているのなら、頭が悪いとしか。
いやいや、彼だってスマップなのです。もちろん他の4人のメンバーも含めてですが、木村さんは当事者なのです。そしてそもそも、スマップを守ろうとしなかったのは木村さんじゃあないですよね。スマップの解散を、木村さんは一人蚊帳の外で知らされたんですよね。他のメンバー4人が勝手に決めたっていう話だと聞いていますが、違うんですか。
スマップ解散をめぐり、対立する意見のどちらが、より人として筋が通っているのかについては、以前記事にしましたので、そちらを読んでいただけると助かるのですが、スマップを解散させたくなかったのが木村拓哉だ、という報道を見ているので、全然笑えないですね。
ネット記事などを見ると、どこでも、「裏切者扱いされている」と書かれています。
香取さんと木村さんの対立がニュースになる事が多いのですが、そこの真相は当事者間にしか分からない思いがあるとして、こと「裏切り」という言葉に関しては当て嵌まらないと私には思えてなりません。



飯島女史がジャニースを離脱するにあたって、それが自主的なものであれ更迭のような結果であれ、それを受けて一度はスマップのメンバー全員が彼女について行こう、という意思を固めたのだとします。
その後、木村さんが何を思っての事か、やっぱり事務所は辞めない、という気持ちの変化を起こしたとします。
これは、誰がなんと言おうと裏切りではありません。メンバーそれぞれ、一人の人間としての生き方は本人だけの物であり、自分で決めるものです。誰かと足並みを揃えなければならない理由などありません。
百歩譲って、他のメンバーには「一緒に辞めような」という話を我先に持ち出したにも関わらず、その後相談もせずに突如「やめねーよ」という意思を独断専行で公に発表した、というなら他のメンバーは面食らったでしょう。オイオイ、「ちょっと待てよはこっちのセリフだぞ」と言いたくもなるでしょう。
もしそうなら、メンバーの間に溝が生まれた理由にはなると思います。
しかしお互いに個人活動が忙しい中で、本人の口からではなく周囲から先に、「キムタク、ジャニーズ辞めないってよ」という話を聞かされる順番抜かしがあったかもしれませんし、木村さん自身が辞めないと決めた理由をきちんと他の面子に話せていたら、ここまで拗れることはなかったようにも思います。
何故なら、いくら恩義を感じているマネジャーが会社を辞めたからといって、それに追従する形でジャニーズを辞めるなど、会社の力でここまで大きなアイドルとなったスマップが取ってよい行動ではないと、私には思えるからです。
最終的には独立しても良いと思います。
いつまでもスマップがジャニース所属でなければいけない理由もないと思います。
しかし会社に後ろ足で砂をかけるやり方でなく円満退社出来るなら、です。
それも、そう遠くない未来には可能だったと思えます。
ただ今回のタイミングはその時期ではなかった。
木村さんがそう感じたのだとしたら、私はそれを支持します。
つまり木村さんがジャニースを辞めないという意思を持つことが、誰かにとって裏切りだとは言えないという事です。
考えるべきは、他のメンバーはどう思っているのかと言うことです。
木村さんのせいだ、裏切りだ、スマップ解散だ。
そこに至った真意は、理由は、どこまで冷静に本気なのか。
木村さんの立場や意見について、ちゃんとお互い顔を付き合わて議論したんでしょうか。
どうしても、4対1という対立構造になる理由が、分からないんですよね。
それともそんなに、ジャニーズを辞めたい、スマップを辞めたいんでしょうか。
木村さんだけ、邪魔なんでしょうか。
25年一緒にやってきて、そんな気持ちになる事なんて、あり得るのでしょうか。
まったく、飯島女史ってなんなんですかね。
自分が育てたグループが、自分の進退を切っ掛けににこんな事になって、なんとも思わないんでしょうか…。




今、木村さんはどういう思いで生活されているのでしょうね。
彼のラジオを毎回聞いているファンの方なら知っているのかもしれませんが、以前ほどの覇気や快活さは、今はないのだろうなと想像に難しくありませんよね。
なぜ、このようになってしまったのでしょうか。
対立構造的に言えばジャニーズ側であるキムタクの方が、業界的立場は上のはず。飯島女史側の他4人の方が弱いはずなのに、叩かれているのはキムタクの方。
やはりそこには扇動者の好き嫌いも影響しているのでしょうか。
それとも報道されていないだけで、実は芸能生活が終わるくらい黒いネタが、木村さん側にあるのでしょうか。
一般庶民の私としては、テレビであれネットであれ、表に出て来る情報を自分なりに受け止めて判断せざるを得ないのですが、なんの感情も持たずにパーツだけを組み合わせて考えたとしても、キムタクが悪く言われる理由が分かりません。
可能ならば、木村さんの前に直接飛び出して、
「世間の声なんて嘘っぱち気にしないでください!あなたは間違ってなんかいない!」
と伝えたいです。





不思議なもので、いつも、こういう実在する人や団体の固有名詞を出して記事を書く際には「特にファンではないのですが」という断りを入れているのですが、だんだんとキムタクファンだと言っていいような気にさえなってきます。
いや、既にファンの方から見ればなんの知識もないしなんの実績もないのでファンと名乗るにはおこがましいですが。
そして実際「ファンだ!」とも思っていないのですが、他の4人をテレビで見ると腹が立ってきたり、今回のように「キムタク頑張れ!」と思えてくる自分に、「あれ? これってファン心理?」と首を捻る瞬間があります。





何も知らずに、勝手な思い込みで言いますけど、木村拓哉さんて、


ナチュラルボーン・良い人』


だと思うんですよね。もちろん異論は認めます。
そして彼と対極にいる中居さん、彼はそうではない気がします。
悪い人という意味ではありませんよ。
彼の人の良さって、経験で身に着けた「正しい処世術」だと思うんです。
テレビを見ていて違和感を持つのは、もしかしたら日本中で私だけかもしれませんが、どうしても心から「中居クンて良い人なんだな」と思えない事に最近気が付きました。
順序が逆になってしまいますが先に中居さんの話を続けると、
この方がテレビに出ているのを見て、「あ、素が出てるな」と思ったことが一度もありません。
笑っている顔、怒っている顔、感動している顔。誰かに感謝している顔。
スマップとして、司会者として、コメンテーターとして、たくさんテレビに出ておられますが、どの顔を見てもその向こう側にまだ本気の素顔が隠れている気がしてなりません。
本心は別にある、偽っているとは言いません。
何かニュースに対してコメントをしていても、言葉を選び、理性を持って、その場に相応しい表情をしながら、「これであってるよね」と俯瞰で自分を見ながら話しをされているように見受けられます。
それが良い、悪いの話ではありません。
実際それを実行に移せる人はそうそういないと思いますし、凄い技能の高さだとも思います。
ならば何故「良い人なんだなー」という風に見えないかと言うと、その人間の一番奥にあるものが「善」であれ「悪」であれ、見えない事自体が怖いからです。
言葉ではとても感動的で、他人に対して優しい気持ちを投げかけていても、まだ奥に何か見せていない顔があるんじゃないか、と思ってしまうと、それだけで一歩引いて見えてしまうのです。
実際は、あれだけバラエティ番組で懸命に取り組む姿勢を評価され、共演した芸人さんからも尊敬され、認められている方なので、仕事に対する熱意や彼なりの考え方というものは、称賛されるべき素晴らしく真摯な物だと思います。
しかしその事と、ナチュラルボーンな部分は別だと私は思っています。
よその会社やよその職場の人間にまで認めてもらうにはそれ相応の努力が必要ではありますが、要領さえ分かれば知識と経験で武装する事は可能です。
しかし、生まれ持っての資質とか、幼い頃染み付いてしまった習慣というものは無意識のうちに凝り固まり、自分ではどう変化させることも出来なくなっていくものだと思います。
他人に自分を見せられるか、絶対に見せられないか。




そういう意味で、木村拓哉さんは、ある意味不幸かもしれません。
彼は昔チーマーだったなんて言われていましたが、おそらくびっくりするくらいピュアで真面目な人のように私には見えます。
スマップに対して愛情が芽生えるずっと前から、「アイドル」という役を自分の体に宿し、今日まで演じて来られたように思います。
木村さんがドラマに出る度、「何をやってもキムタクだ」と言われ続けるのは仕方のない話で、それは彼が役者である前にスマップというアイドルとしてとっくに完成しているからなのだと思います。
子供の頃自分に宿したアイドル。
理想のアイドル。アイドルのスタンダード。イケメン。グループの中心。時代の中心。
それをずーっと、アイドル=自分自身になってしまうまで、演じて来られたように思います。
木村拓哉演じる「無限の住人」ではなく、
木村拓哉演じる「スマップのキムタク演じる」無限の住人です。
そこを頑なに崩さず、というか崩せず、時には批判に晒されながら、もがいて来たのが木村拓哉という人なのだと思います。
それを私が不幸と呼んで良いか分かりませんが、そういう側面もある気がします。
いかにもアイドルらしい仕草、アイドルらしい動き、アイドルらしい笑顔。
全てが作られた物のはずが、それでも私には、テレビで見る彼の表情に嘘臭さを感じません。あざとい表情や動きが鼻につく、という人はいるかもしれませんが、彼は常に格好つけてテレビに出演してきました。それが普通だったはずです。そしてそれを視聴者は知っているはずです。
それは彼がナチュラルボーン・良い人で、キムタクを演じる事に喜びと幸福を感じていたからではないかと、私は思っています。
たとえ他人に何を言われようが、「俺、スマップ、俺、キムタク」という誇りが彼にはあったし、そこに強い自信があったから、屈託なく笑え、屈託なく怒って来られたのではないかな、と思います。
彼の一番奥深くにあったのが、スマップのキムタクである、というプライドだったように思うのです。
そんな彼にとって一番大事な物、自分の人生の核になっていたもの、あるいは全て。
その全てが今年一杯で終わってしまう。
確かにそれでも、彼がスマップのキムタクであった事実は消えませんし、人々の記憶には残ります。
しかしこれから先の不安と、淋しさと、もしかしたらあるのかもしれない後悔なんかの感情の深さと痛みを思うと、ファンじゃなくたって「頑張れ!」と言いたくもなります。




頑張れ!キムタク!
私は応援しています!

あの映画を見ない理由。

たまには自分の話でも。



邦画の興行収入ランキングを塗り替える勢いのアニメ映画、「君の名は。」。
原作本もコミックも売れに売れ、ニュースでも何かと話題に上っていますね。
ですが私はおそらく、この先も見る事はないと思います。


「そんなネガティブな事を言いたいだけならわざわざ記事にするんじゃない」


自分でもそう思いますので、誰かに言われる前に書いておきます。
見た後の感想なら書く価値があるのかもしれませんが、見ない理由を滔々と書き連ねる事に意味などありません。
ですので、読みたくない方はぜひ他所へジャンプしていただいて構いません。
意味がある、意義があると思って書くわけではございません。
ただ単に、『私はなぜこれ程までに「君の名は。」に魅かれないのか』をじっくり考えてみた、というだけの話です。
本当にそれだけです。
いつかこれを読むであろう我が子も、もしかすると読み飛ばす可能性を孕んだ書き出しですみません。




もちろん映画を見ていませんし、あらすじも知らないので、内容があーだこーだと言うつもりは毛頭ございません。
ただの天邪鬼、という私の気質も理由の一つに数えられるかもしれません。
流行っているから、余計見たくない。
そこも内包しているのかもしれませんが、まず第一に思い浮かんだ理由が、『映画好き』だから。
とても誤解を招く言い方をしましたが、承知の上です。
世の映画ファンの方達の中にも、君の名は。を大絶賛する人もいることでしょう。
実際見た方の話はこの際どうでも良くて、私のように頭が割れる程毎日何本でも見たいくらい映画好きだけどそんな時間ないんだよね、という社会人にとっては、限りなく見る優先順位が低いぞ、という話です。
実際そうですよね? と誰かに問うてみる。
今映画館で上映されている最新作だけでなく、WOWWOWで放送されて録画済みの映画、この季節になると不思議と見たくなる思い出の映画、毎日でも繰り返して見たくなる大好きな映画、まだ見ぬ過去の名作等、時間的におそらく一生かかっても見る事の叶わない映画が数多く存在するのを知っているだけに…。
ここでそんな映画達の名前を書き連ねていくことは、「君の名は。」よりこっちの方が面白いに決まってるだろ、と宣言していく事と同義になるのでやめておきますが、そういう事です。




それでもあれだけ多くの人が実際に映画館に足を運んで見ているという現実があります。
そこには『年齢的な要因』もあると睨んでいます。
映画館にお金を払って見に行く、という習慣のある人は純粋に映画好きだと言って差し支えないと思います。
デートスポットの選択肢として昔から選ばれてきた場所でもあるので、突発的に見に行った方もいるでしょう。
そういう普段から映画館で最新作を見ることが当たり前になっている映画ファンと、デート先に選んだカップルを除いた、それ「以外」の理由で映画館に足を運んだ人の数が、興行収入の結果を左右していると思われます。
そして今回はおそらく、その大部分が中高生なのではないかと思っています。
全くの推測です。
アニメなので、主人公たちが学生風なので、偏見でそう推測してみました。
しかしあながち間違いだとも思いません。
ジブリ作品ならいざ知らず、テレビ等で絵柄を見た限りでは完全に若い子向きの映画だなーと思えました。
こちとら昭和生まれの40前です。
アニメはもう、見ていません。漫画は大好きですが、アニメは見ません。
面白い面白くないを語る以前に、見るという事がまずありません。
中には、勿体ない、という声もあるでしょう。そうかもしれません。
もちろん子供の頃は大好きでしたよ。
しかし今はもうアニメを見ない代わりに映画を見ているので、時間的な割合で言えば何も損はしていません。
最近、一番最後に見たアニメは、WOWWOWで放送されていた映画版の「聖闘士聖矢」です。これは仕方はありません。だってドンピシャの世代ですからね。それこそ面白い面白くないでは決められません。
「聖闘士聖矢のフルCGアニメ!? しかもサンクチュアリ編!? 見るでしょう!そこは!」
昔、子供の頃に嵌った作品というのはアニメでもドラマでも映画でも、内容や出来不出来に関わらず、思い出の作品としてもう一度触れたいという思いは誰しもが持つようになる自然な感情だと思います。
ましてや年を食えばなおの事、その思いは強まります。
そんな聖闘士聖矢、作品自体は2014年の制作ですが、私がWOWWOWで見たのが今年なのか去年なのかはっきり思い出せません。要はそのくらい前に見たもので、そしてそれ以来アニメは見ていません。
WOWWOWで放送されたタイミング次第では、もっと長い間アニメから遠のいていたかもしれません。
ただ、昭和生まれの40前だから、アニメを見ないという書き方は少し変だなと自分でも思っています。
好きな物に年齢は関係ありませんよね。
しかし一般論として、今どきのアニメ視聴者の主力は、深夜アニメ枠をゴールデンタイムとするオタクな10代から20代の子達で、30代から40代の真正マニアはそんなに数多く残っていないと思うのですが、どうでしょう。
実際私の身の周りの人間でも、30代前半までは「神」と呼ばれたアニメコレクターでさえ結婚を機に随分とその「収集癖」も落ち着いてしまいましたし、環境が変わると趣味嗜好も変わり、のめり込む度合いも緩やかになっていくのを生で見ていましたから、そう的外れな意見でもないように思います。





そしてそして、一番小さな要因。
先程優先順位の話をしましたが、実際に見た方ならばまずここで食い違うはずです。私が知らないだけで、とんでもない名作の可能性があるからです。そう思う方にしてみれば、まず何を置いてでも「君の名は。」を見るべきだ!という意見になると思います。
しかし私は見ません。
何故ならば、『好みのタイプじゃないから』。
これを言ってしまうと、ほとんどそれが理由じゃないか、ただの食わず嫌いじゃないかと思われるかもしれませんが、決してそんな事はありません。要因としてはそこまで比率の大きい理由だとも思っていません。
好みのタイプじゃない映画もこれまでたくさん見てきましたし、そんな映画でも惚れ込んだ作品が幾つもあります。
良い例が、年齢の話です。加齢とともに環境や心境の変化があり、好きな物が変わってきたり、増えたり減ったりする事は人生における真実です。

もともと私は映画のジャンルで言う「ラブコメ」が好きではありません。好きではありませんが、「洋画」となるとそれだけで無条件にハードルが下がります。これが「邦画」だったり「ドラマ」だったりするとほぼ自分からは手を出しません。洋画の場合だと、出演している女優さんが好きだったり、自分の人生タイミング的に幸せな時期だったりすると、浮かれて自分から手を出したりします。そして「おお、意外と掘り出し物だったな」という出会い方に感謝したりする天邪鬼なわけです。
そういう事は非常によくあります。
クリスマスシーズンになると、ホームコメディが見たくなったり。
疲れている時は何も考えずに見れるマーヴェル映画が好きだったり。
時には昔嵌った映画を引っ張り出して見返してみたり。
ホラーは一年中見ますがね。
特別好きでもないラブコメですらバイオリズム次第では見たくなる時があります。
自分の置かれた現状や気分によって映画をチョイスするわけですが、それでも尚「君の名は。」をこの先も見ないと思える理由が、


「このタイプの映画をみたいと思うタイミングが自分の時間にない」


と直感で判断しているためだと思われます。
先日テレビの「ワイドナショー」を見ていて、ダウンタウンの松本さんも「君の名は。」を見たと仰っていたのでびっくりしました。
その時の感想が、おぼろげな記憶ですが
「甘酸っぱい」「忘れていた気持ちを取り戻せる」
ような感覚になる、という事だったように思います。青春映画を大人になって見ると味わう「あるある」です。あとは「音楽が素晴らしい」という意見もあったように記憶しています。ネタバレを考慮してだと思いますが、物語についてはほとんど触れず終いで、結局何がどう良いのかは伝わって来なかったのですが、出演者の方が言う、良かったという反応だけ見れば、「よくできた青春映画なのだろうな」、という印象です。
青春映画は好きではありませんが、嫌いでもありません。
そもそも映画に何を求めるかと聞かれれば『現実逃避』と答える私なので、あまり現実とリンクするようなリアリティのある物語は好きでないように思います。
ハリウッド的青春映画となれば、日本人の私にしてみれば十分「非現実」なので楽しんで見れます。
しかしいくらSFな設定であろうとも、日本を舞台にしていて、高校生くらいの年代で、学校生活が出て来るような、J−POPが流れてくる、アニメ映画を見ることはこの先もないと断言します。
さらに言えば、「甘酸っぱい感覚」「忘れていた気持ちを取り戻す」ために映画を見たくなった時、候補に挙がる映画はそれこそ山ほどありますから。そういう意味でも、じゃあ「君の名は。」を見ようか、という機会はめぐって来そうにありません。




以上、長々と書いてきましたが、私が「君の名は。」に魅かれない理由でした。
それでは今から、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見たいと思います。

色んな「誰得」。

誰が得する話? と思った話題2つ。
・東急のマナー広告で、電車内の化粧は「みっともない」と宣言。
・文春が報じたレコ大出来レースの実態、バーニングが金払ったとかなんとか。



何で見たかちょっと思い出せないのですが、文春の中の人が、所謂文春砲と呼ばれる昨今の報道について、単純に面白がってもらうために、読者が興味持ってくれそうな事を報じているだけで、特定の個人を陥れようとか、正義の旗を振りかざそうなどと思ってやっている訳ではない、という記事を読んだ事があります。
ジャーナリスト精神を発揮して「あれはいかんこれはいかん」を伝えたいんじゃないんだ、ただただ「面白いだろ、こんな話」と言いたいだけなんだそうだ。
結果そのせいで人生変わっちゃった人達もいるから、ちゃんと責任取れよな、という気がしないでもないのですが、書かれるだけの事をしでかした当人の問題もあるので部外者はただその話を聞いて各々判断するほかありません。
そんな中で、上に書いた2つの記事は、「それは一体だれが得する話なの?」と思えてなりません。




・「電車内化粧」

東急グループのマナー広告として、ポスターと動画が公開され、女性から批判を集めているとのこと。
「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」というフレーズが使われており、電車の中で化粧をする女性を揶揄しています。
それに対し、電車内で色々他人に迷惑をかける行為を行う人達がいる中で、何故化粧だけこんな言われ方をしなくてはいけないんだ、と批判する女性たちが出てきているとのこと。確かに、酔っ払いや痴漢や盗撮、優先座席の占領や座り込みなど、電車内で目に余るマナー違反は多々ありますよね。今回あえて社内化粧を槍玉にあげた理由がよく分からないという思いは分かります。
ただね、みっともないのはみっともない。そこは素直に感じましょうよ。
化粧直し程度にコンパクト覗き込んでパタパタ、パチンでハイ終了なら誰も何も言わないと思いますが、ようはスッピンで乗り込んできて一からお化粧始めちゃう人達の事でしょう? それは、みっともないですよ。
しかしながら、前回の記事も言いましたが、それは社内で車掌さんが注意するなり、時間帯や路線によって黙認する姿勢があったり、臨機応変にその場でなんとかすればいいだけの事であって、わざわざ広告上げて責めてみたり、そこに不満をぶつけてみたり、総じてみっともないですよ、と私なんかは思うわけです。
言われてみれば確かに「みっともない」。
しかしわざわざ言われなければ忘れてしまえる些細な事。
まさしくこれを見た私として誰得よこの話?







・「レコ大のヤラセ」

スゲー!どうでもいいー!
って思ったのは私だけではないはずです。
どうでも良いのはつまり、ヤラセでも本気でも、そもそもレコ大に興味がない、と思う気持ちと、ヤラセだろうがなんだろうがその業界が盛り上がるなら別にいいけどね、という気持ち。今回のニュースに対しては両方の思いがあります。
そもそもレコード大賞って、言われてみれば首を傾げてしまうのですが、主に新聞社が中心となって楽曲やアーティストを選出していたはずです。そんな賞、どうでも良くないですか?
ただ、昔からあるので、この日本国内においては有名な賞ですし、毎年年末に発表されるTV番組も含めて風物詩になっている事は確かです。
よくわかりませんが、受賞したらそれなりにお金が儲かるシステムなのかな?
ただ大分前から、受賞を辞退するアーティストがいたり、授賞式に出席しないアーティストがいたりで、権威も落ちているしあまり有難がられているイメージはないな、というのが正直な所です。
それでも、音楽で成功することを夢見て日夜頑張って来たアーティスト達が、実際に「今年はあたなですよ!」と選ばれて嬉しい気持ちも絶対にあると思うんですよね。
そして選ばれたアーティストのファンも、人それぞれ意見は違うと思いますが、ちょっと嬉しいと思うんです。
ここでも何度か書きましたが、私はベビーメタルが好きです。
もしベビーメタルがレコ大獲ったら、



「へー、ベビメがねー。なんかイメージと違うんだけどなー、日本というより世界で評価されてるイメージ強いからなー。ふーん、レコ大ねー、大賞ねー、ふーん」



くらいのテンションにはなると思います。
獲ったアーティストが大喜びしている姿を見たならば、素直に良かったなーという温かい気持ちにもなります。
レコード大賞という賞がどういうもので、その実態はこうで…
とかそんな事どうでも良いのです。
例えば、本で言うと「芥川賞」「直木賞」という権威ある2大文学賞がありますが、実際受賞した本が売れるのはそのどちらでもなく全国の本屋さんが選んだ「本屋大賞」だったりします。
なので今若いアーティストや実力のある歌い手が、どの賞を欲しいか、貰って嬉しいかは色々あると思います。
しかしそういう核心とは別に、単純に他人に「選ばれる事」。
「あなたが、今年の1番です」と声に出して言われる事の喜び、ってあるじゃないですか。
そういう意味で言うと、このレコード大賞にも大勢の喜びと幸せが詰まっているはずです。




さて、そこで。
そんな年末の風物詩、レコード大賞今年の受賞者は「誰々さん」ですけども実はヤラセでーす!
という報道になんか意味があるのか、と。
なんのための記事なのか、と。
バーニングが金出して、三代目JSBに獲らせたよ、と。
そんな事言われなきゃ分からないし、メンバー、ファン、興味ない人、日本国民に対してどんな「得」があるのか?
「損」しかないじゃないか。
疑いをかけられたメンバーに(おそらく)悪意などないだろうし、
叩かれるファン達も可愛そうだし、
興味ない人に至っては「やっぱりそうなんだ」と簡単に鵜呑みにするだろう。
何がしたいんだ文春。
仮に、お金渡して審査員を買ったとしよう。
で、なんなのさ。
他に誰か受賞に相応しいアーティストがいて、横から掻っ攫われたとでも言うのでしょうか。
私は日本のメジャーシーンに興味がないので、今年誰が受賞すべきか分かりません。しかしなんやかんやで露出の多いLDHグループのどこかが獲る事に違和感もありません。
昔よく言われた、某事務所のゴリ押し女優がネットで叩かれまくっていた話。演技がどうのこうの、バーターでどうのこうの散々と言われていましたが、今でもちゃんと生き残っておられます。それは本人の努力なくしてはあり得ない事。スタート時に事務所のバックアップを多大に受けたとしても、視聴者に受け入れてもらえるかは本人次第。その女優さんはちゃんと頑張ったんだと思います。少なくとも、そのゴリ押し女優を才能で押さえつけて飛び越えて行った女優が多く存在しない事も、たまに見るテレビドラマの顔触れを見ると分かります。全ては金の成せるワザ、なのだとしても、それを覆せるだけの実力を示す存在がそう多くないのもまた事実だと思いますよ。
ちょっと脱線しましたが、そういう事です。
ようは、業界が盛り上がればそれに勝る功績はないと思うんです。
金で動かない、実力だけで歌を届けたい、紛い物は許さない。
そういうスタンスで、己の力だけを信じて貫き通したい人達は、そういう道を選べばいいだけのこと。
実際三代目JSBを好きな人たちがいて、音楽業界に潤いをもたらしているのなら、それもまた一つの正解だと見るべきです。
何故それを壊そうとするのか。
そしてそれは誰の為?
何の為?
まさに、誰得。
誰も得してないと思います。
特にLDHに思い入れはありませんが、とても不憫に思います。

寿司食いねえ。

食べものを粗末にしてはいけません。
という誰もがが幼少時期にならう常識について、そもそも粗末ってなんだ、と問いかけているキャバクラ嬢のニュース。
この方だけに限った話ではないそうなのですが、最近お寿司を食べに行ってシャリだけ残す人、特に女性が増えているようです。
ネット上で騒ぎになって、批判が殺到していることに対し、何故か九州出身のキャバ嬢が回答しておられるのを見ました。
そもそもネットニュースなのでネタかもしれません。
寿司だけにね。
こちらからは以上です。




そういうわけにもいきません。
この方のツイッター炎上を機に広がった騒動なのか、
そもそもこの宮崎出身のキャバ嬢が本当に実在する人間なのか、私は何も知りませんが、そんな背景など関係なく笑ってしまう回答だったので、取り上げてみました。



世間的にというか一般的に、飲食店においてのみならず、出された食事を残すという行為自体がそもそも勿体ない。
それは世界共通の認識だと思います。
しきたりや文化の違いで、あえてちょっとだけ残すのがマナー、とかそんな細かいローカルルールがあったとしても今回は置いておくとして、食事を残す事に罪悪感を抱かない人を見たことがないです。
人によっては好き嫌いがあるし、私にもあります。
なのでそもそも食べられなかった事もありましたし、残す事も実際あります。
その日の体調だったり、辛い食べ物が極端に苦手だったりで同じような経験をした人も大勢いると思います。
しかし心の中で、「あ。残しちゃったなー」「これ、どうしても食べられないんだよなー」と申し訳なく思うはずなんです。そういう風に育てられてきたので。
ところがどっこい、今回炎上しているお寿司のシャリを残す人のほとんどが、罪悪感を持っていない。
ある種「消費者選択の自由、アハハン」くらいに思っている節がある。




「金払ってんだからいいだろ」



という言葉をよく見ます。
そして今回キャバ嬢の放った回答に出て来た中で一番重要視されていた、シャリを残す理由。



「体型維持と体調管理のため」



いや、笑うでしょこんなん。
ネタですやん寿司だけに。寿司だけに!




ちょっと分かり易く箇条書きにしてみます。
以下、寿司を食べに行ってシャリだけ残す人急増というニュースに反応して批判してくる人に対するキャバ嬢の反論。



・勿体ないという気持ちはわかるけど、その「勿体ない」の価値まで考えたこと、ある?
・私は体調管理と体型維持のためにシャリは残すわ。
・欧米ではハンバーガーを頼んでも中身だけ食べてパンを残すわ。
・友人のジェシカはトマトソースもかけないわ。
・ラーメン店でスープを残すのと同じよ。
・刺身と寿司ネタは違うわ。
・私は寿司ネタを食べたいのよ。
・大きさや気軽さも寿司ネタの方が良いしね。
・シャリをそのまま食べ続けて病気になったら誰か面倒みてくれる?
・そもそも残したくて残してるんじゃないわ。




こんなん絶対面白いですやん。ネタとして完璧ですやん。
ふざけるのは大概にして、これをどう捉えて良いものか考えてみました。



「寿司のシャリを残すのはもったいない。それは理解できます。しかし、批判している皆さんは、その『もったいない』の価値まで考えているのでしょうか。もったいないを優先することにより、失うものもあるんです。私は体形維持と体調管理のため、寿司を食べるときシャリを残すことにしています」


というようなことを仰っているわけなのですが、
凄いですね。
自分の体が一番。その為には食べものを粗末にします!
と断言しているわけです。
最後の最後で、私だって本当は食べたいんだ、みたいな言い訳が出て来るのですが、基本的には罪悪感などないと思えます。
良いか悪いかで言ったら悪い、しかしそもそも一番大事なのは自分の体の方。
結局、人間誰しもがそういう割り切りはあると思います。
しかし、物を粗末に扱ってはいけない良心あるいは常識と、自分の体調を天秤にかけた時、大抵の人間は寿司を食べる機会を控える。食べたとしても分量を加減するものなんです。
どこの馬鹿が病気になるまで米粒を食えと言ったのか。
ジェシカ(誰だよジェシカって)がトマトソースをかけないのと、ラーメンのスープを残す生活習慣病が怖いオッサン達の理由は同じだから分かります。
しかし己の体調管理を理由に悪びれもせず「残す選択」をスタンダートにしようとするな、と私は思います。
そもそもラーメンのスープに含まれる脂分や塩分を考えて控える行為と、寿司のシャリを残すのとでは比例した行為とは言えませんよ。
健康被害を考えた場合、全然違います。
もっと言えば、シャリを残して生魚ばかり腹が膨れるまで食う事の方が、コレステロールや脂肪の事を考えた場合、だいぶ危ないと思うのですがね。
痛風とか。
お金を払っているのだから良いだろ、というスタンスも傲慢で鼻持ちならないので嫌いです。
そんなに残したいなら家に持って帰れ。
持って帰って冷凍して少しずつ食え。
ゴミを出しておいて客の自由という理屈は通らないぞ。




とは言え、仮にカウンターで横に座ったキャバ嬢が皿の上にシャリをテンコ盛りにしているのを見かけたとしても、私は注意などしませんよ。
法で裁けないことを他人が注意しても「言いがかり」だと言われておしまいでしょうから。
お店側が何も文句を言わず注意もしないならば、その行為は黙認されていると考えるべきです。
周囲がとやかく言うことではありません。
ただ、私がその店の大将だった場合は、「帰れ、そして二度と来るな」と言ってやりますよ。
当然です。
お金を払って食べる消費者がお店を選ぶ自由と、こいつに俺の握った寿司を食わせたくねえ、と突っぱねるお店側の自由がありますからね。
少なくとも自分の店ではそういう屁理屈は通させません。




ちなみに私は寿司屋ではございません。

ちょっと行きたくはないぞ今年のUSJ。

USJで開催中のホラーアトラクションで展示されている日本人形にまつわる抗議の話。
日本人形協会が「供養のために奉納された人形が違う目的で使用されている」「日本人形を恐怖の対象として扱うのは営業妨害」と抗議した、らしいのですがちょっと待って。分からない事を事前に整理しましょうか。

まず、供養の為に奉納されたとされる日本人形は、奉納先である和歌山県淡嶋神社の持ち物なのでしょうか。
法律的な事は分かりませんでしたが、奉納というのは自分にとって価値のあるものを供物として仏に捧げる事、またはその行為自体を指すらしく、では供物とは何かというと、供養目的達成のために信仰対象に捧げるもの、のことを言うようです。
というとは、和歌山県淡嶋神社に奉納された人形は、供養のために元の人形所有者が「よろしく頼んます」と言って神社に置いて帰った。手放した、という事だと思われます。「なんか変な感じがするので、お祓いしといてね、また取りに来るから」という事であれば、それは奉納とは呼べず、所有権も移らないと思います。
という事はですよ、やはりUSJに貸し出された人形は、和歌山県淡嶋神社のものだということになります。
しかし今回抗議しているのは、日本人形協会
これがややこしい。
和歌山県淡嶋神社側が、「言ってた事と違うじゃないか」と、違う目的で使用しないで欲しいというクレームを入れるなら正当な理由になると思うのですが、関係ない団体が言ってるからUSJ側も「何言ってんだオマエ」という態度に出たわけですね。
最初にこのニュースを見た時。てっきり和歌山県淡嶋神社が抗議しているのだと思い、うわー、USJやらかしたなーと思ったのですが、違ったようです。
ただですね、USJ側の回答にあるように「法的根拠がないから」と言われてもなんとなくスッキリしない気持ちが残るのも確かです。
まず、その展示されている人形が実際に奉納された供物であるということ。
そもそも本物を使う意味があるのかな?
作るより借りる方が経費削減、という事なのだと思いますが、本物なんて単純に不気味過ぎて引く。そのリアリティに余計テンションが上がるぅー!という浮ついた発想が私にはもうない。
だって、奉納した人の気持ちはどうなんだ、と。
「長年愛してきたけども、そろそろ手放したいが捨てるのは可哀想だし、仲間が一杯いるこの神社に納めようか」という前向きな思いと愛情で奉納した元の持ち主が、USJで見世物にされてワーキャー言われてると知って不愉快になるとは思わなかったのだろうか? そして実際に元の持ち主は嫌な気持ちになっていないのだろうか?
それとも和歌山県淡嶋神社に奉納された人形はすべからく呪われている、元の持ち主から恐れられ捨てられた人形達なのでしょうか?
そうならそうでめちゃくちゃ怖い。
日本人形を純粋に愛玩人形として捉えられている人達やそれを商売ににしている人達にしてみれば、やはり営業妨害と言わざるを得ないでしょね。

ダウンタウンの松本さんが「怖いもんは怖い。日本人形の新しい用途」と仰られたように、私も先ほど愛玩人形として捉えられている人達、というややこしい表現を用いましたが、私にとっても日本人形は怖い物という固定観念があります。やはりと言って適切か分かりませんが、「日本人形」と打ってグーグルで画像検索をかけると、明るいイメージの写真はほぼ出てきません。それが一般的なイメージとまでは言いませんが、どこか謂れの判然としないホラー要素が付き纏っている事も事実だと思います。
そんな向かい風の中、ネットではなくUSJという現実の世界で、リアルな恐怖対象として展示するというのは、業界を揺るがす大打撃になると判断したのだろうなという気はします。
これまでも、髪の毛の伸びる人形とか、勝手に動くからくり人形とか、昔から怖いイメージはありましたから、ダメ押しのように若者のエンターテイメントに組み込まれるのは我慢がならなかったのでしょうね。
ただ、奉納した元の持ち主の気持ちを考慮して、今後は本物を使うことはしません、全部こちらで作り直します、という事になることはあっても、一旦世間に話題として出てしまった以上、イメージ回復は絶望的でしょう。
というわけで、一番良いのは和歌山県淡嶋神社さん側には「今年限りで結構です」と断りを入れ、来年からは日本人形協会に協力を依頼してそれこそ恐ろしいほどの数の日本人形を製作すれば良いのです。
「営業妨害だ」という発言をした以上、愛玩より商売道具だという気持ちの方が強いのでしょうし。
背に腹は代えられぬ。
これぞwin/winの関係と言えます。めでたし。

本気より本音が勝つとそうなる。

なんとなく周りにもこういう人いるなー。



ブログが更新されたので読んでいて思いました。長谷川豊さんのブログ、「本気論 本音論」。情弱な私にはためになる勉強の場でもあったし、物事を考える切っ掛けや素材を戴いていたネタ帳でもありました。
ふとした時に何度か思ってはいたのですが、ここ最近の問題発言を経てからこっち、確信に近い思いを抱いております。




「この人怒られるの相当嫌なんだな」




と。もしくは、怒られ慣れしていないか、極端な自信家もしくは自尊心が強い。とてもプライドが高くておまけに鼻っ柱も強い。
悪口のように聞こえたらすみません。そのように見えます、思います、という感想でしかありません、念の為。
というのも、今回更新されたブログの記事一つだけ見ても、随所にそういった氏の性格が滲み出ている箇所が見受けられました。
そういう人が私の周りにもいて、時に迷惑だったりするので残念な気持ちに苛まれつつこれを書いています。
まず、今回書かれた10月18日付の記事は『御免で住めば警察はいらない』。僕はいつか、透析患者を減らせるように腎移植を推進する働きかけをしていこうと思う。」というタイトルなのですが…。
許可なく引用しておりますので注意を受ければ消しますが、これコピペです。「御免で住めば」というのは「済めば」と書こうとした誤字だと思いますがそんなことはどうでも良くて、「なんでそう、敢えて他者を煽って自分の首を絞める物言いをしたがるのかな」、というのが反射的に出た私の第一印象です。
あるいは誰かにそう言われたのかもしれませんが、だとしたらもっと酷いし言葉のチョイスのセンスがない。
長谷川さんはご自身のブログ内で、既に謝罪の記事を書かれています。
それなのに、「御免で済めば〜」とはなんなのか。
敢えて良い捉え方をすれば、言葉だけでなく色々考えて行動にも移していきますよ、と言いたいのだとしても、この皮肉ったタイトルは真摯とは言えません。
己の否を認める、反省する、というのは言葉だけでなくもちろん態度や行動にも求められます。
しかし今回の記事を冒頭から読んでいて出て来るのは、他所のブログ記事から文章を無断引用した事へのお詫びをしてきたとか、長谷川さんに物申す!というスタンスの方と直接会ってお話してきた、だの何が言いたいのかわからない日常報告の中に紛れた「言葉だけのお詫び」。

この人本当にお詫びしたいと思ってんのかなーと首を捻ったのが、以前よりちょくちょく出て来ていた「法的本拠」や「私はちゃんと現場を取材していますよ(キリッ)」という外堀を埋めるような作為的な文章。今回もバッチリ書いてます。自己防衛をしているようで、要らないなと感じます。少なくとも、反省真っ只中だと宣言するなら一切の保身は感じさせちゃいけないでしょう。
そして何より、一回転するんじゃないかなというくらい首を捻ったのが、「それでも私は間違っていない」アピールを書いちゃってる事です。



今回、長谷川さんが騒動に発展した記事で取り扱っている題材は、日本における医療問題とお金の話です。決して個人レベルで解決できる話ではありませんが、それでも国民一人一人が「明日は我が身」と関心を寄せて考えていく事は大切だと思います。
そういった切っ掛けを広く読者に与えるべく書かれた記事だと私は思いたいですし、必死で考えた「本気」よりも、言いたい事の「本音」が気持ちで上回ってしまった結果起きた事故だと思いたいです。
長谷川さんも一人の人間ですから、腹が立てば怒ります。
人工透析とお金について考えた時、彼なりに許せない部分や腹の立つ部分があったのでしょうね。そしてそれを「こんな問題がありますが、皆さんどうしたものでしょうかねー?」と言えば良かった場面で、「死ねー」と言っちゃった。
ごくごく簡単に言えばこういう話です。
そこで長谷川さんは考えた。



「死ね」という言葉を使ったのは間違った。一旦そこは謝ろう。でも、考え方は、間違ってないよね?



これでは、反省してます謝罪したいですと言った所で誰が信用するんだ?



「お詫びするっつってもあれよ、ちょっと表現が拙かったかなー、勘違いしちゃった人もいたかもなー、くらいの事よ? 結局俺の言ってること、間違ってねーし!」



と言われた気分です。
そもそも、今回の記事より前に書かれたお詫びの文章内においても、言葉遣いが不適切だった、自身に落ち度がないのに透析治療を行っている患者さんも傷つけてしまった、一方的だった、と反省点を述べれおられますが、見方を変えれば「自業自得の奴は自分でなんとかしろ、出来ないなら死んでね」という考え方には触れず撤回もしていません。
ちょっと怖いなとすら思ったのは、例の記事を受けて、現在治療を受けている患者さんにいらぬ偏見を植え付け、下らない誹謗中傷を誘う可能性のある内容だった〜という部分。
そんなこと誰も思わないよ!
皆びっくりしてるのは、そこじゃあないから。
長谷川さん自身の人間性にびっくりしてんだから。



とまあ、ほんとに反省してるんだか、何を反省してるんだか、何にお詫びしたいんだか分からなくなってくる次第です。
他者を傷つけて、なにか自分に落ち度があったら、素直に謝る。
ただ素直に謝る。それが謝罪。
そこに、「いや、でもね」とか「ただ分かってもらいたいのは」とか言い訳だの独自の解釈だの無駄にくっ付けてくる人は心底悪いとは絶対思ってないね。
悪いと思えば素直に謝りますよあたしゃーね。
というスタンスを言葉で念押ししてくる人程、本気で謝りはしないね。
これはもう社会人あるあるですよね。
長谷川さんはまさにそんな人、のように私の目には映りました。




果ては最終的に人工透析とお金の話から腎移植の話題へスライドして行きます。日本ではまだまだ腎移植が進められていないそうです。世界的には人工透析は腎移植までのつなぎの治療である場合が多い、んだそうです。
長谷川さんもいつか腎移植の推進に助力していきたいそうですよ。



え? なんの話してんの?



うーんやっぱり腹立つなー。
あれだけ意気揚々と、取材結果や過去の例や統計やデータ諸々を用いて、自業自得の人工透析患者や年金システムや保険料の話に鋭く切り込んでいたのに、そっちやめて移植手術の話に移行するってどうなんだよ。と。
一方で「お詫びしたい」(言葉のチョイスに対しては)
一方で「考え方は間違っていない」(データと取材は嘘つかないし)
一方で「でもその話続けると面倒だし移植の話していこーか」(面倒だしね)




おいーーーーーー。
実際どういう了見なのかは知りませんが、簡単に誤解を招くような発言ばっかするってどうなんでしょうか、フリーアナウンサー様。
私の周りにもいますよ。
謝ると見せかけて言い訳してくる人。
謝った次の瞬間にはもう違う話題を仕掛けてくる人。
どんだけ忍耐力ないんだろうってびっくりします。
他人と考え方が違うだけで、私の出した答えに間違いなどあるはずもない。と頭から信じ切っている人種なのでしょうね。
でなければ、謝罪した返す刀で人を切るような真似は出来ません。





長谷川豊さんの「今本当に伝えないこと」って一体どこにあるんでしょうか。




※追記

今回の記事はどうしたって長谷川氏のブログを読んでいないと意味が分からない内容になってしまいました。
ステマとかそんな気は一切ないですし、何度も言うように自分の子供に読ませたい思いで書いているにも関わらず、何年後かに氏のブログが残っているか分からない上でこのような書き方になってしまった事を反省しています。しかし、何かのご縁ですし、今回私の記事を読んでくださった方にはぜひ一度長谷川豊氏のブログを実際に読んでいただきたいな、とも思います。ステマではないですよ。