「和牛」が優勝、と私は言いたい。

年に一度の漫才の祭典が、おかしな余韻を引き摺っていますね。
お察しの通り関西人である私もご多分に漏れず、漫才は大好物です。
個人的な優勝はこの数年ずーっと『和牛』だと思っているわけですが、賞レースの典型がモロに結果に響いていますね、毎年。
優勝した『霜降り明星』というコンビが妥当か否かという問題もありますが、所詮このあたりの答えは個人的な好き嫌いなんですよね。
これは冷静に考えれば分かる話で、人によって「笑えたかどうか」の意見は変わります。
今回の記事はもちろん、審査員である上沼恵美子さんに対する暴言を吐いたという芸人二人の話題に便乗した内容なのですが、その前に少し持論を書き連ねたいと思います。



まず、先ほど述べた好き嫌いの件ですが、基本的にはテレビに出たり名前の売れている芸人はすべからく、面白いんです。
そうでなくては周囲が認めませんし、仕事を貰えなくなる以上、メディア露出のある芸人はその時点で皆、面白い事は間違いありません。
それが滑り芸であれ、いじられ芸であれ、天才的なトークの切れ味であれ、体を張る芸であれ、面白いという一点においては同じで、横一線全く同じレベルでないにしろ、少なくとも製作上の需要があるわけです。
では視聴者は何を基準に芸人の優劣を付けているかと言えば、好き嫌い、個人的な趣味に他なりません。



私が好きなお笑いの特徴は、話芸です。
しゃべくりの達者な人が好きなわけです。
例えばテレビ内における狩野英孝さんのような愛されキャラもひとつの芸ですが、彼と同じタイプの芸人さんと、もっと知名度の低い例えば「アキナ」というコンビを比べて、どちらのステージを見たいかと問われれば即答で「アキナ」です。
そしてこの判断が、好き嫌いです。
多様な形の芸が存在し、自分の武器を磨いて活躍するタレントさん達の世界で、実力とともに運命を二分するのが視聴者側の好き嫌いである事は、これは致し方のない事だと思います。



そこで、M-1のような賞レースにどのような意味があるかと言えば、出演するファイナリスト側にとっては「チャンス」、番組を作る側にとっては「コマーシャルと視聴率」、見る側にとっては「娯楽」です。
それぞれの視点で、このM-1に対する捉え方は違うわけです。
なので、演者である芸人と、番組を作る側である審査員と、ただ笑ってればいいだけの視聴者で意見が食い違うのは自明の理です。
何故「和牛」のような誰もが認める芸達者が優勝できないのか、と言う理由もこのあたりと関係があるように私は思います。
賞レースといってもテレビ番組である以上、やはりショーと言う名のエンターテイメントです。
実力もさることながら、この日の審査で一番重要視されるのは「爆発力」であり「番組への貢献度」です。
審査員は皆、その日の出来と彼ら本来の実力を天秤にかけて悩んでいたはずです。
ギャロップ」という関西のコンビはその最たるもので、関西芸人が多い審査員席の方々は、本来ギャロップが面白い事を当然分かっているんです。彼らの面白さはステージ上で爆発を起こす瞬発力よりも、何も考えずにぼーっと眺めるうち「ふふっ」と脇腹を突かれたように笑ってしまう、日常の延長線上にあるお笑いに近いのです。その為、番組の仕上がりに直結する「笑い声という、お茶の間のボリュームを上げる芸」という制作側が望む結果を出せなかった。ただ何度も言うように、彼らの得意とする笑いが番組に向いていなかっただけで、面白くないわけではないのです。
劇場で行う漫才をそのまま聞いているようだった、という審査員の評価がそれを示しています。
審査員はこれまで見てきた彼らの実力と評価、そして本番の出来、この差に悶絶し、怒るわけです。
そうです。私の大好きな「和牛」は玄人が手放しで褒め称える程面白い芸人ではありますが、当日「霜降り明星」よりも勢いと爆発力がなく、番組を盛り上げられなかったその結果が二位なのです。
しかしどちらがより芸人として好きなのか、というインタビューをとれば、おそらく結果は変わって来ると思います。
それこそ「ジャルジャル」が優勝するかもしれません。
話芸が好きな私にしてみれば、水田さんの腹の立つ程演技力の高いボケと、川西さんの達人の域に達する滑らかな口調と俳優ばりの表情、声質の聞き易さに惚れ惚れし、そして伏線回収の見事さ圧倒されるわけです。
ただ、彼らは「そこまで」舞台上で声を張り上げるわけではありません。
そういうネタもありますが、基本的には上記の特徴が彼らの洗練された武器です。
となると、やはり爆発力を感じさせる勢いのある叫び系漫才よりは、一段低い印象になってしまうのだと思います。
いわゆるテレビ映え、です。
ここでも、審査員は迷います。
「和牛、めっちゃおもろい」「やっぱり上手い」「前評判どおりやな」「でもおもろいけど、派手さはないぞ」「分かりやすい笑いでドカーンと受けたのは…霜降りか?」
となるわけです。
M-1とはつまり、「誰が一番面白い芸人deショー」ではなく、「今日最も番組に貢献した芸人は誰deショー」なのです。



ここで審査員側に目を向けると、ここでも意見の乖離が見られます。
その乖離がどこで起きているかと言えば、この番組を「チャンス」と捉えているファイナリストと、制作側の人間である審査員との間です。
ネタを披露する芸人にとっては、「自分が一番面白いと認めさせること」と、「番組に一番貢献してやるぞ」という意気込みが導く結果はイコールなので、ただガムシャラに緊張と戦いながら上質な笑いを再現する事に専念すればよいのですが、審査員はネタを見ながら二つの事を考えます。
「このネタほんまに面白いか?」
と、
「なんてコメントしよう」
です。
審査員ですから、ネタの出来栄えを自分の知識と経験をもとに精査するわけですが、先ほど述べたように、芸人本来の実力とぶっつけ本番の点数で差異が生まれる事で新しい選択肢が生まれます。
「…はあ?」
です。
分かりやすく言えば、「なんでこんな事になった?」です。
件の上沼恵美子さんやオール巨人さん、中川家礼二さんなどが苦笑いで否定的なコメントを出していたのはこれが由縁であり、あくまでもその芸人本来の面白さを知っているからこそ言える「真摯な言葉」なのです。
ただ、審査員側も全員芸人です。四角四面な普通のコメントばかりできません。
なぜなら「番組制作サイドに近い演者」だからです。
面白く番組を作り上げる責任感を、芸人を審査すると同時に背負っているからです。
関西のお笑い好きはほとんどが、上沼恵美子さんの芸風を知っています。
彼女が沈痛な面持ちで「良かったです」「これは、いただけないですね」などと言った所で、違和感しかありません。
ネットでも取り沙汰されていますので細かい発言を拾って来ることはしませんが、あの日審査員席の一番右側で、一人悶絶しながらあーやこーや言いながら、だけども気を配り、そして先走り、個人的嗜好をひけらかすようなコメントで疾走し、となりの松本人志さんを苦笑いさせることが出来るのは、上沼恵美子さんただ一人であり、彼女のあの剛腕審査をも含めて「M-1というTV番組」なのです。
芸人ならば、テレビ上で彼女にいじられて「美味しい」と思えない時点で余裕がなさすぎる。そんな芸人が必死こいてネタを披露した所で、焦りばかりが透けて見えて、きっとひとつも笑えない事でしょうね。
誰とは言いません。




今回上沼恵美子さんの審査に対する暴言を吐いた芸人二人に対しては、その後も二撃、三撃と追加攻撃による跳ね返り制裁が絶賛銜えられ中ですので、ここで名前を出して批判するのはやめます。
ただ思うのが、「論点のズレ」です。
例えば暴言コンビでも今回本選に出場した側の芸人は、
「誰がなんと言おうと自分が一番面白い。またここに戻って来る」的な趣旨の発言をするべきであり、それに絡めて上沼恵美子さんに噛みつく芸風なら、まだ内容はどうであれ許されたと思います。
ダメなのは、面白くなかった自分を棚に上げて「自分が一番M-1を思っている」などズレたコメントでラストチャンスを逸した上に、その後他のコンビの名前を出して「個人的な好き嫌いで審査するな」という意見に便乗するなど、芸人として最下級のスベリを披露した事です。
…全然面白くない。なんのための、動画投稿だったのか。
しかも、翌日謝罪するっていう…。
もう一人の、本選に出てない方の芸人は、ただの酔っ払いでしょう。
言葉遣いが悪すぎてまともに議論するのもためらわれる脳髄クラッシャーですが、仮に、百歩譲って、上沼恵美子さんへの人格攻撃や女性蔑視(これは本選に出ている方か?)ともとれる発言を抜きに考えてみた場合、どのような事を言っているのか。
聞く価値のある発言は「自分目線の感情だけで、審査しないでください」というごく短いフレーズのみでしたが、これも私的には論点のズレが見てとれます。
そもそも上沼恵美子さんは自分の感情だけで審査などしてません。
もしも、「ミキ」が好きだからという理由で、面白くもないのに高い点数を付けていたらアウトです。でも、ミキ、面白かったですよね。反対にギャロップ、この日はダメでしたよね。
きちんと点数で差を付けて、その裏付けとして、「敢えて嫌われるかもしれない話題性のあるコメント」で番組に貢献してましたよね。
それを見て何も理解できないばかりか、何故本選に出ていない酔っ払いがクダを巻いたのでしょう?
誰か私に、教えてください。