「言葉を残そう」

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「和牛」が優勝、と私は言いたい。

年に一度の漫才の祭典が、おかしな余韻を引き摺っていますね。
お察しの通り関西人である私もご多分に漏れず、漫才は大好物です。
個人的な優勝はこの数年ずーっと『和牛』だと思っているわけですが、賞レースの典型がモロに結果に響いていますね、毎年。
優勝した『霜降り明星』というコンビが妥当か否かという問題もありますが、所詮このあたりの答えは個人的な好き嫌いなんですよね。
これは冷静に考えれば分かる話で、人によって「笑えたかどうか」の意見は変わります。
今回の記事はもちろん、審査員である上沼恵美子さんに対する暴言を吐いたという芸人二人の話題に便乗した内容なのですが、その前に少し持論を書き連ねたいと思います。



まず、先ほど述べた好き嫌いの件ですが、基本的にはテレビに出たり名前の売れている芸人はすべからく、面白いんです。
そうでなくては周囲が認めませんし、仕事を貰えなくなる以上、メディア露出のある芸人はその時点で皆、面白い事は間違いありません。
それが滑り芸であれ、いじられ芸であれ、天才的なトークの切れ味であれ、体を張る芸であれ、面白いという一点においては同じで、横一線全く同じレベルでないにしろ、少なくとも製作上の需要があるわけです。
では視聴者は何を基準に芸人の優劣を付けているかと言えば、好き嫌い、個人的な趣味に他なりません。



私が好きなお笑いの特徴は、話芸です。
しゃべくりの達者な人が好きなわけです。
例えばテレビ内における狩野英孝さんのような愛されキャラもひとつの芸ですが、彼と同じタイプの芸人さんと、もっと知名度の低い例えば「アキナ」というコンビを比べて、どちらのステージを見たいかと問われれば即答で「アキナ」です。
そしてこの判断が、好き嫌いです。
多様な形の芸が存在し、自分の武器を磨いて活躍するタレントさん達の世界で、実力とともに運命を二分するのが視聴者側の好き嫌いである事は、これは致し方のない事だと思います。



そこで、M-1のような賞レースにどのような意味があるかと言えば、出演するファイナリスト側にとっては「チャンス」、番組を作る側にとっては「コマーシャルと視聴率」、見る側にとっては「娯楽」です。
それぞれの視点で、このM-1に対する捉え方は違うわけです。
なので、演者である芸人と、番組を作る側である審査員と、ただ笑ってればいいだけの視聴者で意見が食い違うのは自明の理です。
何故「和牛」のような誰もが認める芸達者が優勝できないのか、と言う理由もこのあたりと関係があるように私は思います。
賞レースといってもテレビ番組である以上、やはりショーと言う名のエンターテイメントです。
実力もさることながら、この日の審査で一番重要視されるのは「爆発力」であり「番組への貢献度」です。
審査員は皆、その日の出来と彼ら本来の実力を天秤にかけて悩んでいたはずです。
ギャロップ」という関西のコンビはその最たるもので、関西芸人が多い審査員席の方々は、本来ギャロップが面白い事を当然分かっているんです。彼らの面白さはステージ上で爆発を起こす瞬発力よりも、何も考えずにぼーっと眺めるうち「ふふっ」と脇腹を突かれたように笑ってしまう、日常の延長線上にあるお笑いに近いのです。その為、番組の仕上がりに直結する「笑い声という、お茶の間のボリュームを上げる芸」という制作側が望む結果を出せなかった。ただ何度も言うように、彼らの得意とする笑いが番組に向いていなかっただけで、面白くないわけではないのです。
劇場で行う漫才をそのまま聞いているようだった、という審査員の評価がそれを示しています。
審査員はこれまで見てきた彼らの実力と評価、そして本番の出来、この差に悶絶し、怒るわけです。
そうです。私の大好きな「和牛」は玄人が手放しで褒め称える程面白い芸人ではありますが、当日「霜降り明星」よりも勢いと爆発力がなく、番組を盛り上げられなかったその結果が二位なのです。
しかしどちらがより芸人として好きなのか、というインタビューをとれば、おそらく結果は変わって来ると思います。
それこそ「ジャルジャル」が優勝するかもしれません。
話芸が好きな私にしてみれば、水田さんの腹の立つ程演技力の高いボケと、川西さんの達人の域に達する滑らかな口調と俳優ばりの表情、声質の聞き易さに惚れ惚れし、そして伏線回収の見事さ圧倒されるわけです。
ただ、彼らは「そこまで」舞台上で声を張り上げるわけではありません。
そういうネタもありますが、基本的には上記の特徴が彼らの洗練された武器です。
となると、やはり爆発力を感じさせる勢いのある叫び系漫才よりは、一段低い印象になってしまうのだと思います。
いわゆるテレビ映え、です。
ここでも、審査員は迷います。
「和牛、めっちゃおもろい」「やっぱり上手い」「前評判どおりやな」「でもおもろいけど、派手さはないぞ」「分かりやすい笑いでドカーンと受けたのは…霜降りか?」
となるわけです。
M-1とはつまり、「誰が一番面白い芸人deショー」ではなく、「今日最も番組に貢献した芸人は誰deショー」なのです。



ここで審査員側に目を向けると、ここでも意見の乖離が見られます。
その乖離がどこで起きているかと言えば、この番組を「チャンス」と捉えているファイナリストと、制作側の人間である審査員との間です。
ネタを披露する芸人にとっては、「自分が一番面白いと認めさせること」と、「番組に一番貢献してやるぞ」という意気込みが導く結果はイコールなので、ただガムシャラに緊張と戦いながら上質な笑いを再現する事に専念すればよいのですが、審査員はネタを見ながら二つの事を考えます。
「このネタほんまに面白いか?」
と、
「なんてコメントしよう」
です。
審査員ですから、ネタの出来栄えを自分の知識と経験をもとに精査するわけですが、先ほど述べたように、芸人本来の実力とぶっつけ本番の点数で差異が生まれる事で新しい選択肢が生まれます。
「…はあ?」
です。
分かりやすく言えば、「なんでこんな事になった?」です。
件の上沼恵美子さんやオール巨人さん、中川家礼二さんなどが苦笑いで否定的なコメントを出していたのはこれが由縁であり、あくまでもその芸人本来の面白さを知っているからこそ言える「真摯な言葉」なのです。
ただ、審査員側も全員芸人です。四角四面な普通のコメントばかりできません。
なぜなら「番組制作サイドに近い演者」だからです。
面白く番組を作り上げる責任感を、芸人を審査すると同時に背負っているからです。
関西のお笑い好きはほとんどが、上沼恵美子さんの芸風を知っています。
彼女が沈痛な面持ちで「良かったです」「これは、いただけないですね」などと言った所で、違和感しかありません。
ネットでも取り沙汰されていますので細かい発言を拾って来ることはしませんが、あの日審査員席の一番右側で、一人悶絶しながらあーやこーや言いながら、だけども気を配り、そして先走り、個人的嗜好をひけらかすようなコメントで疾走し、となりの松本人志さんを苦笑いさせることが出来るのは、上沼恵美子さんただ一人であり、彼女のあの剛腕審査をも含めて「M-1というTV番組」なのです。
芸人ならば、テレビ上で彼女にいじられて「美味しい」と思えない時点で余裕がなさすぎる。そんな芸人が必死こいてネタを披露した所で、焦りばかりが透けて見えて、きっとひとつも笑えない事でしょうね。
誰とは言いません。




今回上沼恵美子さんの審査に対する暴言を吐いた芸人二人に対しては、その後も二撃、三撃と追加攻撃による跳ね返り制裁が絶賛銜えられ中ですので、ここで名前を出して批判するのはやめます。
ただ思うのが、「論点のズレ」です。
例えば暴言コンビでも今回本選に出場した側の芸人は、
「誰がなんと言おうと自分が一番面白い。またここに戻って来る」的な趣旨の発言をするべきであり、それに絡めて上沼恵美子さんに噛みつく芸風なら、まだ内容はどうであれ許されたと思います。
ダメなのは、面白くなかった自分を棚に上げて「自分が一番M-1を思っている」などズレたコメントでラストチャンスを逸した上に、その後他のコンビの名前を出して「個人的な好き嫌いで審査するな」という意見に便乗するなど、芸人として最下級のスベリを披露した事です。
…全然面白くない。なんのための、動画投稿だったのか。
しかも、翌日謝罪するっていう…。
もう一人の、本選に出てない方の芸人は、ただの酔っ払いでしょう。
言葉遣いが悪すぎてまともに議論するのもためらわれる脳髄クラッシャーですが、仮に、百歩譲って、上沼恵美子さんへの人格攻撃や女性蔑視(これは本選に出ている方か?)ともとれる発言を抜きに考えてみた場合、どのような事を言っているのか。
聞く価値のある発言は「自分目線の感情だけで、審査しないでください」というごく短いフレーズのみでしたが、これも私的には論点のズレが見てとれます。
そもそも上沼恵美子さんは自分の感情だけで審査などしてません。
もしも、「ミキ」が好きだからという理由で、面白くもないのに高い点数を付けていたらアウトです。でも、ミキ、面白かったですよね。反対にギャロップ、この日はダメでしたよね。
きちんと点数で差を付けて、その裏付けとして、「敢えて嫌われるかもしれない話題性のあるコメント」で番組に貢献してましたよね。
それを見て何も理解できないばかりか、何故本選に出ていない酔っ払いがクダを巻いたのでしょう?
誰か私に、教えてください。

「死んだら負け」について

ダウンタウン松本さんが発言された「死んだら負け」という、いじめに対する自殺への持論ですが、結論から言えば私も同感です。
松本さんの意見に対して、そこをきっかけに様々な考え方を議論する機会を得た事も一つ、テレビやネットの在り方として良い事ではないかな、と思います。



ただ、ツイッターへの返事、リツイートとかリプライとか、その言葉の意味を私は知りませんが、松本さんの発言に対する意見として『ドリー』さんという方が、このように返しているそうです。



「いや、だからさ、おっさん。自殺する子供を本当に減らしたいのなら「死んだら負け」と言うよりも「いじめたら負け」「人を苦しめたやつは負け」「パワハラする奴は負け」と声を大にして言おうよ。それを言うのが大人だろう。なんで常に被害者に努力を強いて加害者はお咎めなしなん?おかしいやん」



この方はネットでのニックネームとは言え(本名だったらすみません)『私が誰か』という所在をある程度晒した上で発言されていますが、個人的にはこの方の発言の仕方が好きになれません。
仰っている事がどうであれ、「いや、だからさ、おっさん」という書き出しはいかがなものか、ばかりが思われて内容が入って来ませんでした。年長者や初対面の人間に一定の敬意を払えないのであれば、話しかけては駄目だろうと、思います。ボソっと、一人で呟いてたらいいのに。
…恐らく物凄く怒っていらっしゃるのだと思います。
私も以前のエントリーで、瀬戸内寂聴さんの名前を出して口汚く好き勝手に書いた事がありますので偉そうに言うつもりはありませんが、人の振り見て我が振り直せとは、まさにこのことかと(笑)。
例えどれほど価値のある言葉を投げ掛けていても、品位って大事だなと痛感しますね。



では実際、割と支持されているという、この方の松本さんへの反論についてですが、一体どういう意味なのかと個人的に考えてみました。
今回の松本さんの意見は、「いじめで自殺する人を減らす為」の言葉です。
いじめで自殺を減らすとはどういう事かを考えた時、被害者である自殺願望のある「いじめられた側」を責めるより、「いじめる側」を責めろよ、とドリーさんは仰っており、『なぜお咎めなしなのか』と憤っておられるわけです。



言葉の綾とか、その上辺だけで水掛け論をしても話の先が続かないので敢えて端折るような展開で書きますが、松本さんは「いじめる側を責めるつもりはない」という意見の人ではないと思います。
諸々あるでしょうが、ドリーさんはそこに食って掛かっても仕方がないよと、私は思います。
そして、いじめる側が負け、いじめる側が悪、という思いはほとんど誰の心にも存在するでしょうし、今松本さんが同じ場面でそれを言わなくても、既にたくさんの方が声高に叫んで来たことだと思います。
今問題なのは、いじめで自殺しようとしている人間に対して、何が出来るのか。
そこを考えた時に、残念ながら死んでしまった人に対して「頑張ったんだよね」「仕方ないよね」「悪いのはいじめっこだから」「あなたは悪くないよ」と、自殺という選択肢を受け入れるスタンスをとるべきではない、と提案された松本さんの意見は、とても真っ当だと私には響きました。



これは「いじめられる側に非はあるかないかの議論」ではないのです。



死んだら負け。
負けとは何を意味するのか。
翻って、この場合の勝ちとはなんなのか。
…松本さんが仰りたいのは「勝利」と「敗北」の勝ち負けではなくて、例えどういう状況であれ、生きてさえいれば絶対になんとかなるんだ、という経験と信念を端的に込めたに過ぎないと思います。



以前ここでもチラリとご紹介させていただいた、時枝可奈さんが書かれた小説『芥川繭子という理由』という作品の中に、いじめに対する著者御本人の持論と思われる台詞が主人公の語りとして出て来ます。(私はそう捉えました)
主人公である『繭子』は学生時代に酷いいじめを受けており、昔から憧れだったバンドのドラムスとして加入し、成長しうる場を掴み取りました。やがてミュージシャンとしてインタビューを受ける中で、このようなやり取りをしています。
以下、了承を得た上で作品より抜粋します。



━ 繭子はさ、今いじめで苦しんでる子たちに、発信出来る言葉を持ってる?
「んー、ないね」
━ そうかあ。
「というかね、私もそうだったけど、今苦しんでる子達にはきっと、今苦しんでない人間の言葉なんて届かないし、聞いてる暇はないんだよ。必要ない。今ある世界が全てじゃないなんて言うけどさ、今ある世界を真っ向から否定しないと次の世界へなんて行けないんだから。だから、突拍子のない打開策なんて思いつかないし、ただ命からがら生きるしかないよ。逃げたくたって、逃げ方分からない私みたいなバカもいるだろうし」



私はこの部分を読んだ時に、傍観者の立場としてなら言える事は山程あるのにな、と思いました。
例えば「もっと学校側に訴えろ」とか「もっと大人を巻き込め」とか「不登校でも良いんだ」とか。
だけどリアルだなと思うのが、『今苦しんでない人間の言葉なんて届かない』という部分と、『突拍子のない打開策なんて思いつかないし、ただ命からがら生きるしかない』という部分です。
今ある世界を真っ向から否定するために周囲をどんどん利用して巻き込め、と大人になった私なら言えますが、そこまで大胆に思い切れない若者たち(だけではないかもしれませんが)には、周囲からの言葉など届かないのかなと切なくなります。
いじめを受けて精神的に追い込まれた人間は、自分で解決策など思い浮かぶ筈もなく、何が正解で何が不正解かを導き出す前に死を選ぶという事なのかもしれません。
であるならば、いじめを受けている本人だけではなく、いじめる側も含めてそれを包括している学校側や家庭に対して、もっと働きかけが必要なのではないか。
その点を見れば、ドリーさんの意見は素晴らしいと思います。
ただ、「死んだら負け」と言い続けて行きたい松本さんの発言は、『問題に対して触れたい部分』が違うのだろうなと思うわけです。



いじめを受けて苦しんでいる人達にだって、思考する能力は残っているはずです。
そこに働きかけたいのかなと、私は思います。
もちろん大人たちが協力して環境改善に取り組む事も大切ですが、今苦しんでいる人達の目を真っ向から見て、目を逸らさずに自信をもって言える言葉だってあると思います。



『生きてさえいれば、死ぬよりはましな、素敵な事が絶対に待ち受けています』



これは、誰にも否定できないと思います。
今それが理解出来なくても、誰にも言ってもらえなくたって、絶対に幸せを味わえる場所は存在します。金持ちにならなくったって、恋人がいなくたって、天涯孤独だって、死ぬよりはマシな幸せは掴めると私は思います。
マジで思ってます。
だけど、死んだら終わりなんです。
そこには何もありません。
だから、死んだら負け、で良いじゃないですか。
生きるが勝ち、でも良いですけど。
そこをやいのやいの言い合いする事より、「そこにいちゃだめだ、そこであきらめるな、こっちへ来い」という思いを込めて言葉を発信していれば、目の前の自殺は減らせると思います。

夏は終わりました。

不幸な記事で止まっていたので、気分を変えて音楽の話でも。
子供が生まれるずっと前から、自室で音楽を聴く機会が減っていたように思います。結婚を機にと言うと奥さんが怒るでしょうが、やはり自分一人の時間をまとめて取れなくなった事も原因の一つではないかと思います。
相変わらず音楽は大好きです。
側になくては生きて行けないと思います。
なので今はもっぱら車での通勤時間や外出時にカーステで楽しむ毎日。
時代時代によって好んで聞く音楽の趣味は変わってきましたが、
今一番心地よいアーティスト、ミュージシャンは、


GARNET CROW


です。
サン、ハイ。


「なんで今!?」


そうですよねえ、なんで今?という感じなのでしょうかねえ。
ご存知の方も多いと思いますが、ガーネットクロウを一躍人気者にしたのは「名探偵コナン」のアニメ主題歌タイアップですよね。
時代がまだビーイングを受け入れていた頃で、多種多様なグループがコナンから飛び出して行きました。
彼らもその一つです。
そんなガーネットクロウが解散したのが2013年ですから、
すでに忘れ去ったしまった方も、知らないという方もいらっしゃるかもしれませんね。
だけど当時から大ファンだった方は、今も変わらず大ファンのままでいらっしゃる事と思います。
私はどちらかと言えばガーネットクロウ人気が隆盛を誇っていた時代には見向きもしなかった(笑)人間なので、何一つ偉そうなことは言えませんし、マニアックな知識もありませんから、往年のファンを唸らせるような記事は書けません。
極私的な楽しみ方を、ここに残しておきたいと思います。



このブログのタイトルは「言葉を残そう」です。
長年お世話になっているこの「はてなダイアリー」様は来年春頃サービスを終了されるそうです。
これも時代の流れか、時代がまた終わるなと思うと非常に寂しい。
娘が大きくなった頃に、ここにしたためた拙い文章を読んでもらおうと再始動させたブログでしたが、この場所自体がなくなってしまうんですね。
もちろん「はてなブログ」へ移行すればよいのですが、それはそれ。
この場所はこの場所でしかない。
うちの娘はまだ二歳過ぎですが、ある程度会話が成立します。
最近車に乗っておでかけをすると、
「お父ちゃん、ガーネットクロウ聞く?」
と言います。思わず声に出して笑ってしまいます。
ガーネットクロウ、聞いて良い(よ)」
と許可までくれます。
うちの娘は二歳にして、ガーネットクロウのファンなのです。
そういう思い出も、彼女の言葉も、そしてガーネットクロウもいつしか過去の思い出になる。
そんな一抹の寂しさも、ここへこうして言葉に残せばいつか振り返って読む事が出来る。
だけど私が今記事を書いている「はてなダイアリー」は消滅します。
しつこいようですが「はてなブログ」は残ります(笑)。
ですが、そういう刹那的な感傷は嫌いではありません。
時代の移ろいや消えさるものの儚さも、どちらかと言えば好きな方です。
そんな私の性格にとてもマッチしているのが、「ガーネットクロウ」なのです。
前振りが長い長い(笑)。




彼らの事を知らない方の為にざっくりと紹介します。
多彩な音使いで飽きの来ない楽曲を生み出すアレンジャー兼キーボードの男性と、確かな演奏力を持ちながら主張しすぎない縁の下の力持ち的存在であるギタリストの男性と、バンドの世界観を一手に担うと言っても過言ではない作詞家でキーボードの女性と、確かな声の魅力と抜群の作曲能力、そして見事な歌いこなしでバンドの顔であるボーカルの女性、四人組の不規則編成バンドです。
なんでキーボード二人おるんや、という突っ込みは野暮です。
詳しくはwikiを見てください(笑)。



車に乗っている時間はずっと彼らのCDを流しています。
今年一番聞いているミュージシャンは彼らです。
「主食はデスメタル」と齢四十目前にして恥じる事なく断言できますが、
そんな私が今はずーっと飽きずに彼らばかりを聞いています。
音楽って、音や歌を聞いていると同時に心のどこかしらが震えていると思うんです。
いわゆる、感動ですよね。
もちろん、デスメタルと彼らではその震える心の部分は違うわけですが、
私の中の柔らかい部分を震わせる心地良さで言えば、ひょっとしたら『KOKIA』と同等あるいはそれ以上かもしれないと思う事があります。
KOKIAガーネットクロウは別のアーティストなので、当然別モノとして楽しめば良いのですが、何故だか自分比として比べてしまっている所があって、「どっちが好き? どっちがすごい?」と勝手に自問自答しています。
そんな、ガーネットクロウ
全く飽きません。
ずーっと聞いていられます。
ひとえに、ボーカル・中村由利さん、通称ゆりっぺさんの魅力ですね。私にとっては。
アレンジの妙も、確かな演奏力も理由としては大いにあります。同じ曲のアレンジ違いをいくつも発表している彼らだからこそ、その手腕を実感するチャンスがたくさんあります。
そして大枠で言えばJ-POP、歌謡曲に入るジャンルの彼らですから、日本語歌詞の魅力という物も外して語れはしません。
一時期ルックス最強神話が生まれた程のビジュアルと個性的なキャラで人気を博した、キーボード担当のAZUKI七さんですが、個人的には彼女の作詞能力の高さが印象的です。
バンドの特徴としてあげられる事の一つに、全歌詞を七さんが手がけ、全作曲をゆりっぺさんが手がけている、というものがあります。
これ実は本当に凄い事で、まず「よく一人でこれだけの数の名曲を生み出せたな」と信じられない程、作曲家であるゆりっぺさんの能力は桁外れです。実際に聞いた事のない方には伝わらないと思いますが、うちの奥さんは例えて、「どのアルバムを聞いてもベストアルバムに聞こえる」と言います。そのぐらい完成度の高い曲しか存在しません。
そして、ボーカルであるゆりっぺさんは作曲時に英語で仮歌を当てるそうですが、その曲に合わせて七さんが歌詞を書いていくのです。
ありそうで、これはなかなか無い事だと思います。
ボーカルのゆりっぺさんは作曲が出来るんです。なら全部自分で歌詞を書いてしまえば自己完結できるわけです。本来自分の書いた曲の世界観は自分が一番理解しているはずです。
そこをあえて、七さんの手に委ねている。
ゆりっぺさんの声に惚れこんだという七さんは、抜群のセンスでもって曲に至極のワードを当て嵌めて行きます。
そしてそれを今度はゆりっぺさんがまるで自分の内側から放たれた言葉であるかのように、歌いこなしています。
この、違和感のなさが本当に凄い。
一曲でも聞いてみればご理解いただけると思います。
歌っている人間と作曲した人間、そして作詞した人間が別だとは信じられないぐらいシンクロ率が高いのです。



世界観と言えば、「ガーネットクロウは暗い」というイメージが割と世間的に浸透していると思います。そして間違いではないよな、とも思います。
ボーカル・ゆりっぺさんの中性的な声のせいか、ガールズポップとはかけ離れた印象は否めないにしても、それが唯一無二の魅力とも言えます。
ですが囁くような低音や、ある種癖のある鼻声や、伸びのある高音や、申し分ない声量など全てを駆使して様々なパターンの歌声を披露している、凡百のグループとは一線を画す事も事実です。
そして、総合力で魅せる飽きの来ないバンド。
これもまた確実に言える魅力の一つです。
歌の上手さだけで言えばもっと上がいる事でしょう。
独特の歌詞を書く人は他にもいるでしょう。
演奏の上手いグループだって他にいるでしょう。
売れた名曲を誇るグループだっているでしょう。
だけどそれら全てを高水準で保持しているバンドはそうそういません。
10年活動していたおかげで多くの楽曲を世に送り出していますし、
ひとつひとつの完成度が高いおかげで「この曲しか聞かない」「この曲ばかり聞いている」という状況に陥りません。
よくあるシングルCDをまとめたベスト盤も良いですが、アルバム曲だけをまとめたベスト盤、シングルのカップリングだけをまとめたベスト盤も存在し、オリジナルアルバムと交えれば聴き方のバリエーションも選択肢が非常に多いです。
ずーっと聞いていたくなるヒーリング効果すらあります(笑)。



あと、やはり、これは言わずにはいられない。
やっぱりそこかい!と言われようが、関係ない。
言う。
ゆりっぺさんがドンピシャ、大好きなタイプです!
バンドの魅力を語る上では邪魔な発言ですが、
まあ、もう解散して随分経ちますし、私は別に広報活動をしているわけではありません。
好きだからこそこれだけ長い駄文を書き連ねているわけです。
なので言う。
ゆりっぺさん、帰って来て!表舞台に、戻って来て!


最後に、これはうちの奥さんと度々話すのですが、
ゆりっぺさんは凄まじい作曲能力の高さ故に、バンドを解散した後も実はビーイングに在籍していて、こつこつと曲を他のミュージシャンに提供し続けているのではないか?
という推測です。
そうであってほしい。
才能が枯れたとは思えません。
いつかまた、彼女の新曲を、七さんの歌詞で、ゆりっぺさんの声で、聴いてみたいです。



そんな私が一番好きなガーネットクロウの曲は、
『Holy ground 〜just like a "dejavu" arr.〜』
です。
…アレンジが実はバンド外の人物なので、楽曲の全てを自分達だけで創造できるクリエイター集団としての彼らを語る上では邪道かもしれませんが、今は一番この曲が好きです。
是非、御一聴をば。

夏なので。

軽々しく言えた話ではないのかもしれませんが。
皆さんは…、呪いというものを信じていますか?



…重いな。違う違う、こんなノリじゃないな。
ただ、眉をひそめてそういう言葉を口にしてしまうような、
そんな出来事がありました。
もしくは、起き続けています。



実際にはそこまでオカルトな話ではありませんが、
身の回りで不幸な出来事が続くと、シャレで「呪われてんじゃないの?」
といった具合に笑い飛ばそうとする雰囲気になったことありませんか?
今がまさにその状態なわけです。



これは私の職場での話です。



次々と不幸な出来事が、とは言えそこまで立て続けに起きているわけではないのですが、やはり最近は「またか」と思う事もしばしば。
例えば私は何年か前に腰を壊しました。
職業柄ぎっくり腰は何度も経験していますが、その時はただの歩行、階段の上り下り、衣服を脱ぐなどの簡単な動作で一日の内に何度も衝撃が走り、最終的には痛みと痙攣を同時に発症してその場から一歩も動けず、救急車を呼ぶ嵌めになりました。仰向けになると激痛に襲われレントゲンが撮影出来ない為、そのまま5日間入院しました。
腰椎椎間板症というあやふやな診断で、要するに骨と骨の間にあるクッションがもうないよ、という事でした。このクッションは再生しないし復元できないので、運動して騙しだまし付き合いなさい、との事でした。あれから一日もストレッチを欠かした事はありません。



他には、バイト時代から同じ職場で働いている先輩は、血液の癌に侵され長い間闘病の為休職を余儀なくされました。
今は復帰して元気に働いていますが、現在も通院中です。



そして同じく長年共に働いた同僚が、具体的な事を言うとアレなので書きませんが、傷害事件を起こしてクビになりました。依願退職という体ではありますが、もちろん責任をとっての辞職です。



そんな職場の代表取締役は、自然治癒や日にち薬では回復しない股関節の病にかかり、手術を行いました。



正社員だけに留まりません。
イケメンで名を馳せた若い学生バイトの男の子。
彼はバイクで転倒し、鎖骨と両腕の骨を折って、バイトを辞めて行きました。



今思い出しましたが、何年か前にはなりますが、インド人とお付き合いしていた女性アルバイトは、DV被害にあい、顔を腫らして出勤して来た事もありました。バイトを辞める時まで、その彼とは別れられていなかったように記憶しています。



他には、今年入社したパートさんは、まだ日も浅いうちから車で横転してしばらく長期休暇になりました。
これ全部実話なんですよ。
普通、職場の人間が車で横転します?
しかも同じくその方は、感染する可能性のある腸の病にも倒れ、しばらく休んだ事もありましたっけ。



そして現時点での、学生バイトリーダー格の男の子。
性格も申し分なく、よく働く素敵な好青年。
彼は大学の授業中にゴルフをしていて、自分の打った球が真上に跳ね上がり右目に直撃しました。
なんとか眼球破裂は免れたものの、医者に言わせれば奇跡だったそうです。しかし眼底骨折と水晶体の破損を引き起こし、若くして人口レンズを入れなくてはいけない外傷性白内障を患いました。既に就職も決めており、地方から出て来て来年の春には大都市大阪で奮闘の日々が始まる、未来ある若者は今視界の一部が欠けており、視力も戻っていません。



一体これは、何が起きているのでしょうか。
こんな事、あります?
これが日常というやつなのでしょうか?
これを読んでくださっている皆さんの周辺も、似たようなものなのでしょうか?
決して大きな会社ではないのですが、一体どうなっているのか…。




先月、職場の健康診断がありました。
しかしほんの10日程で返信封筒が届き、「もう結果が出たのかな?」と思い私の名前で来たその封筒を開けた所、
「胃癌の疑い」
とあり、至急再検査を受けなさいという通達でした。
バリウム検査に引っかかっていたのです。
初めて見ました。他人の字で書かれた「胃癌疑い」という文字。
結果、胃カメラで再検査した所、恐らく胃の内壁、ヒダの部分が隆起しているように映ったのだと思いますという所見で、異常は見当たりませんでした。
本当に、生きた心地がしませんでした。
現在闘病中の方も当然たくさんおられる中で、このような発言はよくないと思いますが、もし本当に癌だった場合、とてもこの記事を書けていたとは思えません。



今も、なんとなくモヤモヤは残っています。
次は誰だ?
次は何だ?
そういう不安が、常に職場には漂っているように思うのです。

ご紹介。

友人が小説をブログで連載を始めました。


『芥川繭子という理由』
https://dawnhammer.hatenablog.com/


作品自体はすでに書き終えていて、手直ししながら週一ペースで更新していくそうです。
しかし、タイトルの下に明記されているのですが、全76回って(笑)。
月4回だとして一年で48話ですよね…。
もう少しハイペースでお願いしたいですね。
内容としては、友人が創作した架空のバンドに対して雑誌記者がインタビューを行うという妄想全開の会話劇です。(もちろん作品中ではきちんと存在するバンドとして、です)
まだ5回目までしか掲載さていませんが、普通に興味深く楽しめました。
私はもともとメタル好きなので友人と好みが合うのですが、デスラッシュという多分一般には浸透していないジャンルを選んで書くあたり、凄いなと。


お時間ある方は、是非。

思い出というものは。

桂歌丸さんが亡くなられました。
TV番組である笑点には50年以上の歴史がある為、今を生きる様々な年代の人が「世代」を感じている事と思います。
歌丸さんが亡くなられた事で今しみじみと感じるのが、「良い時代だったな」という事です。


これは何も私が見ていた時代が良かったという自慢ではありません。
というのも、きっと、笑点を見ていた時間の記憶は、よっぽどの事でもない限り、誰にとっても幸せな思い出として残っているのではないかなと、思うわけです。


私が例外なのかもしれませんが、笑点を主に見ていたのは子供時代です。
それも自分からチャンネルを回した(古い)わけではなく、親の強制ですよね。
日曜日の夕方、うちは夕ご飯が早い家庭だったので、笑点を見ながら家族で食べていたのを思い出します。


司会は先代・五代目圓楽さん。小遊三さん、好楽さん、歌丸さん、木久蔵さん、楽太郎さん、こん平さんというメンバーだったように思います。
もちろん子供でしたから、大喜利よりも若手芸人の漫才を好んでおり、笑点自体特別好きだったわけではありません。
今でこそ理解していますが、当時は大喜利のなんたるかも分かっておらず、笑いどころをスルーしていました。
ただ、木久蔵ラーメンや、チャンラーンや、ずうとるびや、腹黒や、馬面といった個性的なフレーズの飛び交う幸せなテレビ画面の映像は、今もしっかりと脳裏に焼き付いて残っています。
座布団が飛び交う日もありましたね。
山田君がおこって座布団を引っこ抜き、倒れそうになる楽太郎さんがいましたね。
好楽さんてちょっと滑り芸でしたよね。
こんぺいさん、叫んでましたね。
木久蔵さんは、…ラーメンの宣伝してましたね。
小遊三さんは飄々として、安定感ありましたよね。
楽太郎さんと歌丸さん、とっても楽しそうに喧嘩してましたよね。
目を細めてそれを見ていた圓楽師匠の笑顔が素敵でした。


良い時代だったんだなと、改めて思います。
まだテレビが楽しい時代で、楽しいと思える年代に見ていた番組は、大袈裟な言い方ですが、一生忘れないのだと思います。




「一家団欒とかけまして、新たなる旅立ちとときます」


「ほお、その心は」


「そろそろショウテンのお時間でございます。おあとがよろしいようで」




楽しいひと時をありがとうございました。
桂歌丸さんのご冥福を心からお祈りいたします。

連載第一回。「はじめに」

夕焼けに染まる街を歩いていて、ふと心細さを感じて辺りを観察した事は誰にだってあると思う。

ならばそこで感じる、他人の家の夕ご飯の匂いだったり、低空を飛ぶカラスの泣き声だったり、疲れた顔を俯かせて歩く大人達だったり、自分の世界を形作るそれら小さなパーツに対して、遠すぎる隔たりを感じた事は、あるだろうか。

 

あるいは人気の絶えた夏の夜の畦道で。

あるいは人の多さに眉を顰めながら逆らうように彷徨った都会の繁華街で。

私は今、ここにいる。だけどここにはいない。そんな感情。

 

伊澄翔太郎という人の事を考える時、いつも思う事。

それは、彼が私にとって唯一の現実だという事だ。

 

大病を経験し、ベッドの上で自分の生き様を考える日々の中で、彼の存在だけが唯一自分の人生に触れる事の出来る扉なのだと感じていた。

彼が生きている限り、私もこの世界に生きている。

その事だけが、たった一つ私自身が理解する真実だった。

この先何年生きるのか、これまで生きた来た人生に意味はあったのか。

何も確かな答えは出せないけれど、今彼が大切だと思う心。

彼に感謝する気持ち。

彼が存在する限り、私もこの地上で息を吸い、吐き続けるのだという誓いを胸に、私は今日も生きている。

 

 

 

時枝可奈という女性の雑誌記者と出会った事が、この物語を書き連ねるきっかけとなった。以前私は彼女からインタビューを受けて、自分の半生をなぞる「たとえばなし」という書籍を出版していただいた。

自分で言うのもおこがましいが、良い本だと思う。

内容がどうこうというより、主人公が私と伊澄翔太郎だからだ。

それだけで賞賛に値する。

冗談はさておき、この度私関誠自身の手で新たな本を出版する機会を戴いた。

この原稿を書いている時点でどうなるかは分からないが、出来る事なら時枝可奈の書いた本をぶっ潰す勢いで、更に濃度を上げた内容を書いてみたいと思う。

  

 

今これを読んでいるあなたに感謝を。

 

 

私を生んでくれた両親に感謝を。

 

 

出会いに感謝を。

 

  

愛するあなたに。