「死んだら負け」について

ダウンタウン松本さんが発言された「死んだら負け」という、いじめに対する自殺への持論ですが、結論から言えば私も同感です。
松本さんの意見に対して、そこをきっかけに様々な考え方を議論する機会を得た事も一つ、テレビやネットの在り方として良い事ではないかな、と思います。



ただ、ツイッターへの返事、リツイートとかリプライとか、その言葉の意味を私は知りませんが、松本さんの発言に対する意見として『ドリー』さんという方が、このように返しているそうです。



「いや、だからさ、おっさん。自殺する子供を本当に減らしたいのなら「死んだら負け」と言うよりも「いじめたら負け」「人を苦しめたやつは負け」「パワハラする奴は負け」と声を大にして言おうよ。それを言うのが大人だろう。なんで常に被害者に努力を強いて加害者はお咎めなしなん?おかしいやん」



この方はネットでのニックネームとは言え(本名だったらすみません)『私が誰か』という所在をある程度晒した上で発言されていますが、個人的にはこの方の発言の仕方が好きになれません。
仰っている事がどうであれ、「いや、だからさ、おっさん」という書き出しはいかがなものか、ばかりが思われて内容が入って来ませんでした。年長者や初対面の人間に一定の敬意を払えないのであれば、話しかけては駄目だろうと、思います。ボソっと、一人で呟いてたらいいのに。
…恐らく物凄く怒っていらっしゃるのだと思います。
私も以前のエントリーで、瀬戸内寂聴さんの名前を出して口汚く好き勝手に書いた事がありますので偉そうに言うつもりはありませんが、人の振り見て我が振り直せとは、まさにこのことかと(笑)。
例えどれほど価値のある言葉を投げ掛けていても、品位って大事だなと痛感しますね。



では実際、割と支持されているという、この方の松本さんへの反論についてですが、一体どういう意味なのかと個人的に考えてみました。
今回の松本さんの意見は、「いじめで自殺する人を減らす為」の言葉です。
いじめで自殺を減らすとはどういう事かを考えた時、被害者である自殺願望のある「いじめられた側」を責めるより、「いじめる側」を責めろよ、とドリーさんは仰っており、『なぜお咎めなしなのか』と憤っておられるわけです。



言葉の綾とか、その上辺だけで水掛け論をしても話の先が続かないので敢えて端折るような展開で書きますが、松本さんは「いじめる側を責めるつもりはない」という意見の人ではないと思います。
諸々あるでしょうが、ドリーさんはそこに食って掛かっても仕方がないよと、私は思います。
そして、いじめる側が負け、いじめる側が悪、という思いはほとんど誰の心にも存在するでしょうし、今松本さんが同じ場面でそれを言わなくても、既にたくさんの方が声高に叫んで来たことだと思います。
今問題なのは、いじめで自殺しようとしている人間に対して、何が出来るのか。
そこを考えた時に、残念ながら死んでしまった人に対して「頑張ったんだよね」「仕方ないよね」「悪いのはいじめっこだから」「あなたは悪くないよ」と、自殺という選択肢を受け入れるスタンスをとるべきではない、と提案された松本さんの意見は、とても真っ当だと私には響きました。



これは「いじめられる側に非はあるかないかの議論」ではないのです。



死んだら負け。
負けとは何を意味するのか。
翻って、この場合の勝ちとはなんなのか。
…松本さんが仰りたいのは「勝利」と「敗北」の勝ち負けではなくて、例えどういう状況であれ、生きてさえいれば絶対になんとかなるんだ、という経験と信念を端的に込めたに過ぎないと思います。



以前ここでもチラリとご紹介させていただいた、時枝可奈さんが書かれた小説『芥川繭子という理由』という作品の中に、いじめに対する著者御本人の持論と思われる台詞が主人公の語りとして出て来ます。(私はそう捉えました)
主人公である『繭子』は学生時代に酷いいじめを受けており、昔から憧れだったバンドのドラムスとして加入し、成長しうる場を掴み取りました。やがてミュージシャンとしてインタビューを受ける中で、このようなやり取りをしています。
以下、了承を得た上で作品より抜粋します。



━ 繭子はさ、今いじめで苦しんでる子たちに、発信出来る言葉を持ってる?
「んー、ないね」
━ そうかあ。
「というかね、私もそうだったけど、今苦しんでる子達にはきっと、今苦しんでない人間の言葉なんて届かないし、聞いてる暇はないんだよ。必要ない。今ある世界が全てじゃないなんて言うけどさ、今ある世界を真っ向から否定しないと次の世界へなんて行けないんだから。だから、突拍子のない打開策なんて思いつかないし、ただ命からがら生きるしかないよ。逃げたくたって、逃げ方分からない私みたいなバカもいるだろうし」



私はこの部分を読んだ時に、傍観者の立場としてなら言える事は山程あるのにな、と思いました。
例えば「もっと学校側に訴えろ」とか「もっと大人を巻き込め」とか「不登校でも良いんだ」とか。
だけどリアルだなと思うのが、『今苦しんでない人間の言葉なんて届かない』という部分と、『突拍子のない打開策なんて思いつかないし、ただ命からがら生きるしかない』という部分です。
今ある世界を真っ向から否定するために周囲をどんどん利用して巻き込め、と大人になった私なら言えますが、そこまで大胆に思い切れない若者たち(だけではないかもしれませんが)には、周囲からの言葉など届かないのかなと切なくなります。
いじめを受けて精神的に追い込まれた人間は、自分で解決策など思い浮かぶ筈もなく、何が正解で何が不正解かを導き出す前に死を選ぶという事なのかもしれません。
であるならば、いじめを受けている本人だけではなく、いじめる側も含めてそれを包括している学校側や家庭に対して、もっと働きかけが必要なのではないか。
その点を見れば、ドリーさんの意見は素晴らしいと思います。
ただ、「死んだら負け」と言い続けて行きたい松本さんの発言は、『問題に対して触れたい部分』が違うのだろうなと思うわけです。



いじめを受けて苦しんでいる人達にだって、思考する能力は残っているはずです。
そこに働きかけたいのかなと、私は思います。
もちろん大人たちが協力して環境改善に取り組む事も大切ですが、今苦しんでいる人達の目を真っ向から見て、目を逸らさずに自信をもって言える言葉だってあると思います。



『生きてさえいれば、死ぬよりはましな、素敵な事が絶対に待ち受けています』



これは、誰にも否定できないと思います。
今それが理解出来なくても、誰にも言ってもらえなくたって、絶対に幸せを味わえる場所は存在します。金持ちにならなくったって、恋人がいなくたって、天涯孤独だって、死ぬよりはマシな幸せは掴めると私は思います。
マジで思ってます。
だけど、死んだら終わりなんです。
そこには何もありません。
だから、死んだら負け、で良いじゃないですか。
生きるが勝ち、でも良いですけど。
そこをやいのやいの言い合いする事より、「そこにいちゃだめだ、そこであきらめるな、こっちへ来い」という思いを込めて言葉を発信していれば、目の前の自殺は減らせると思います。