「言葉を残そう」

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確かに!

流行語大賞が発表され、またもテレビなどで「保育園落ちた日本死ね」が取り上げられていますね。
「本当にこれが流行語で良いのかー!」
「流行ってると言っていいのかー!」
なんて言われていますが、それらのニュースを見るともなく聞いていたうちの奥さんが、子供のオムツを換えながら言いました。


「どうでも良い事で議論してるなー」


もうね。確かに!としか言えませんでしたよ。
そもそも論。
流行語を知りたいと思う事がありません。
流行したか否かも世間に対してアンテナを張っているわけではないので分かりません。
しかしこうしてテレビで取り上げている時点で、流行っているもしくは流行らそうとしているんだな、と思っています。
なんなら野球に興味のない私にしてみれば、「神ってる」という大賞を受賞した言葉なんて、自分で調べて初めて聞きましたよ。
野球民にだけ流行った言葉じゃないのかな。
それが大賞だって言うんだから、流行語なんて言った所でたかが知れてます。


件の「日本死ね」ですが、選考委員のやくみつるさん曰く、
「言葉が過激かどうかは、考慮に値しない。世間に広く知れ渡ったかどうかが焦点」とのこと。
いやまさしくその通り。
言葉の語感や意味や気持ちなどおかまいなく、世間を賑わせたかどうかが「流行」を選ぶ唯一の基準だと思います。
つるの剛士さんが、「死ね」という言葉に反応し、これが選ばれるなんて嫌だな、という趣旨の発言をされていましたが、嫌というかなんというか、それならただ無視すればいいだけの話なのにな、と思ってしまうのは私だけですか。
子を持つ親として、といった意味の事も仰っているようですが、子を持つ親にも色々いるわけで、一概にみんながみんな怒っている訳でもないと思います。
あえて名の通ったタレントさんが発言するからには、もっと深く意見を続けるべきだし、特にないなら「浅い事言ってるなー」としか思いません。
それよりも「神ってる」なんていつ流行ったんだと言いたくなるような言葉を大賞に選ぶ訳のわからない仕組みに疑問を呈した方が良いのではないですか、流行語大賞というもの自体に興味があるのなら。
私が憂慮するとすれば、「日本死ね」という言葉に対してそこまで嫌悪感を示すのであれば、到底そこから先の意味を考える事は出来ないのだろうなと思える所にあります。
社会学者の古市さんが、「日本死ね」は特定の誰かに対する言葉ではなく、社会問題を国に訴えかける際の比喩であるとして擁護されていましたが、一部のネット利用者がヒステリックに彼を攻撃しているのを心が冷えるような思いで見ました。
その言葉の持つ「暴力的な死」のイメージと、その言葉を用いないと伝わらないと思った発言者の気持ちは、全く同じ物ではないということぐらいすぐにわかる筈なのに。
全然受け入れられないんですね。
まず、「死ね」という言葉は駄目だ。
死ねを使うな、死ねと言うな。
そればっかり。うんざりです。
この言葉が流行った経緯には、つるのさん達みたいに言葉のもつ負のイメージに引っ掛かりを感じた人と、そこまで言うなんて何があった?とそのバックグラウンドに関心を抱いた人の2種類いると思うんですよね。
なので、色々いい切っ掛けになったと思いますし、これが大賞でも良かったぐらいだと私は思います。
もっと言えば、誰がどう思おうと、人々の口に上った頻度が多いか少ないかが流行語の全てだと思うので、本来この発言が飛び出した経緯であるとか、それを受けて嫌悪感を持つといった反応も全部ひっくるめて、今年世間を騒がしたよね、という事には誰も反対はしないと思うんですけどね。
一年を締めくくる言葉の大賞に「死ね」という言葉を選ぶなんてどうかしている!という批判も含めての茶番劇です。



そんな流行の話よりも、ちょっとこれは身近だな、と感じたニュース。
「毒餌を巻いて猫を殺した人の話」。
NHKのアサイチで特集されているのをチラリと見ました。
仕事に出る前だったので、その時はよく内容を把握していなかったのですが、
後に話題になっていることを知って調べてみると、毎日猫の糞尿の後始末で気が狂いそうな経験をした方が、毒餌を巻いて猫を殺した人に同情しますという発言をした。
それをうけてイノッチが憤慨した、という流れだったはずです。


飼い猫や、地域で餌付けをしている地域猫(初めて知りましたが)を勝手な理由で「みだりに」殺すことは犯罪だそうです。
所謂愛護動物というものに含まれる犬猫がもっとも分かり易いですが、人間にとってはペット以上の存在だったりしますから、そりゃあ、殺すのはまずい。というかダメ。
毒餌を使って騙し殺すなんて可哀想。
そんな行為に同情を示すのも駄目。
別の方法を考えよう。
というのが、おそらく一般的な、動物愛護の観点に立った意見だと思います。
とても分かり易い話ですよね。
この話のどこに、私が関心を寄せたかというと、
「もし私だったら…殺すかもしれない」
という可能性が自分の中から消えなかった為です。
かく言う私も、以前犬を飼っていました。
大往生だと言われる年齢まで共に生きた犬がいました。
動物に愛情を注ぐ事は当たり前だと思っている私ですらそうなので、
これそんな簡単に、大上段に、偉そうに、分かり切ったことのように、


「何言ってんだ、可哀想だろ」


で切り捨てて終了して良いものなのかなー、と感じました。
特に猫の糞尿は大問題です。
うちは一軒家で、庭でネギなんかも育てています。
そこへ猫がやってきて、オシッコシャーをしたとします。
それを知らずに適当に洗って食べたとします。
我が家には半年前まで妊婦がいました。
今も乳幼児がいます。
そのオシッコをかけた猫がトキソプラズマを持っていた場合、
重篤感染症にかかる恐れがあります。
実際近所に猫を飼っているお宅があるので、自家製のネギを食べられなくなりました。
ただでさえ妊婦は心も体も不安定です。
乳幼児は抵抗力も弱く、いつどんな病気になるかわかりません。
そんな不安な日々を過ごす中で、毎日どこのものとも知れない猫の糞尿の後始末をしなければならないとしたら…
毒餌がカンタンに手に入るとしたら…
私が異常に考え過ぎるのでしょうか、想像力を働かせ過ぎなのでしょうか。
そんな不安と徒労感と怒りに気が狂いそうになる日々を送ると考えるだけで、ちょっと理性を保てる自信がなくなります。


地域や行政に訴えかけて、餌をやらない方向へ持っていくのに、どれほどの時間を費やすのでしょうか。
そして餌をやらなくなった日から、うちの庭で糞尿をしなくなるとう保障はあるのでしょうか。
猫を殺したいと思ったことはありませんし、殺せ、とも思いません。
しかし、私の中から、その可能性が消えることはないかもしれません。