本音で生きるための努力をしないとね

このひと月ほど自分の事しか考えられなくなっている間に長谷川豊さんがTVの全レギュラーを無くすという事態に陥っている事をついさっき知ってびっくり。色々と氏の発言や考え方を私自身の思いと比較する形で、「考えるという事」において良い切っ掛けをいただいていたので、残念に思います。ただ私は氏の出演しているTVを見た事がないのでその事については何も思わないのですが、あれだけ色々な事柄について熱心に考えておられた方なのに、言葉一つで、言い方ひとつで全くその意図した事は伝えられずに総スカンを食らってしまったというのが、残念で仕方ありません。
とは言え、氏には別にTVに限らずブログやツイッターなどで遺憾なく本領を発揮していただけたら思ったのですが、なにやら「私のブログがウイルスに侵されて仕事の依頼が来なくなって困っています」と仰っているというニュースを目にしてちょっと苦笑い。
どうした品川ならぬどうした長谷川(さん)。
個人的に笑ってしまったネットニュースはさておき、笑えない話。



瀬戸内寂聴さんが、死刑制度に関するシンポジウムあてにメッセージを送り、その中で死刑制度を批判したうえ「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言した、とのことです。そのシンポジウムには死刑反対派の人間だけでなく支持する側の犯罪被害者の会の人達もいて、当然心を傷めているという話。
ちょっとびっくりどころではない発言ですね。
マジか、こいつマジか。
一人の人間として、これくらいのリアクションは出ました。
寂聴さんは作家さんとしていくつもヒット作を持つ方ではありますがお名前からもお姿かたも分かる通り、有名な宗派に属した宗教家でもあります。そこそこ位の高い、尼僧様のはずです。その寂聴さんが何を思ったのか、不特定多数とは言え誰かを攻撃する暴言を吐くとはどういう事なのでしょうか。そのシンポジウム自体、死刑制度反対派の為の集まりだと思い、支持側の人間や被害者の会の方達が来ているとは知らなかったのかもしれませんね。
だからと言って、とても宗教家の発言として適切だとは一向に思えませんけどね。
そもそも、本音が「殺したがりの馬鹿どもと戦え」なのだしてもその気持ちを世に伝えて広めていこうとするにあたって、なんの変換もせずそのまま流す馬鹿がどこにいますか。
言葉を生業にする一面を持つ寂聴さんのチョイスとは思えない程幼稚であり、一方的で、優しさや中立性・品性に欠けており、思考力の欠片も感じられない冷徹極まりない内容です。



私自身は、死刑制度賛成派です。
しかし世の中に反対派が居ても仕方がないとは思います。
人の考えはその人だけの物であり、そこに良い悪いはないからです。
仮に良い悪いがあったとしても、他人の思考を妨げることは出来ません。
どんな状況であろうと人が人を殺して良い道理はなく、死刑はその人の道に反している、と主張したければ主張すればいい。
しかし大切な家族、恋人を無残に殺され、犯人に情状酌量の余地などなく反省や改心の可能性も見受けられない、もしくは圧倒的鬼畜であるなどした場合、どうか死んでくれと思うのも人の素直な気持ちだと思います。
そこに善悪をどうしても当てはめたいのなら、殺人者が悪です。
死刑制度を支持する私は人を殺したいわけではありません。
被害者感情として当たり前のように、犯人に死をもって償ってほしいだけです。人権という不平等な法律に守られてのうのうと生きていてほしくないだけです。それだけの事をしたのだから、代償は死であるべきだ、と思っているだけです。
人間を殺した犯罪者と同じように「殺したがりの馬鹿」ではありませんし、無関係の人間に暴言を吐かれるような罪を犯してもいません。
断りを入れるのが遅れましたが、私は近しい人間を誰かに殺されたわけではありません。考え方としてそちら側なだけです。




寂聴さんとしては、宗教家として、たとえどんな極悪人であったとしても、救いを求める人間を導かなければならないし、どんなに外道であっても人としての心を取り戻せると信じたい立場の人なのだと思います。著書を読んだことはないし講演会に行った事もないので分かりませんが、およそ仏教系の宗教家の考え方はそういうものだと思います。
人間という生き物に対し最後まで希望を捨てない。そして他人を赦す、愛する事が大切だと説く。宗教家としてそういうスタンスなのであれば、そこは絶対に曲げられないのだと思います。
それはそうだろうと思います。
紆余曲折の90年を生きてきて、今更大幅にシフトチェンジは出来ないでしょう。私もそこに文句をつけようとは思いませんし、尊重したいと思います。
ただその他人を赦し他人を愛する気持ちが犯罪者には向けられるのに、被害者側には向けられていないように聞こえるのは何故なんだ。
この方はこれまでにも何度か死刑判決を受けた受刑者と交流をもっています。
これから死ぬと決まった人間の心の支えになりたいのか。
それとも死ぬ間際には人間らしい気持ちを取り戻して償いのキモチを持って召されてほしいのか。
知った事ではありませんが、だったらその倍、被害者とも交流を持つべきであると私は思います。
そして他人を呪ってばかりでは傷は癒えない、忘れる事はできなくとも、生きている限りはどんな些細な事でも幸せを追い求めながら進んで行ってほしいともっと腹の底から絶叫して説けよ。全然届かねえぞこの生臭坊主が。




すみません、めっちゃ腹立ってます。
私は宗教家でも批評家でもなんでもないただの一般市民です。
このブログで1円だって儲けようとは思いませんし、ゆえに名前を売りたいわけではありません。主義・主張を広めたい願望もありません。
子供が大きくなった時に、言葉が分かるようになった時に、「お父ちゃんはこんなことを考えて生きてきたよ」と伝える手段の一つに、と考えながらこの文章を打っています。
なので、思ったことはそのまま書きますよ。
時には暴言も吐きます。それが私です。
あまり汚い言葉は残したくないので一応配慮はしますが、あまりに腹が立つとこういう事もあります。





私は自分の主義・主張を他人に広めたいとは思いません。
しかし、世の中にはそう思う人もいますし、そういう仕事の方もいます。
長谷川さんしかり、寂聴さんしかり。
言葉と思想を持って世に投げかけていく事が人生になっている方達です。その事はとても素晴らしいと思いますし、誰かの生きる糧になる事だってあるでしょう。
しかし、何か強い思いや伝えたい気持ちがあるのなら、その伝える為の努力を惜しんではいけないし、効果的な方法を労力を厭わず考えるべきです。
思った事をそのまま言うなんてさっきの私と同じです。
馬鹿の戯言です。
そしてその馬鹿の戯言によって本来傷つくべきでない人を傷つけるなんて愚の骨頂です。
アナウンサーだ宗教家だが聞いて呆れます。




もっとちゃんとして下さい。
ちゃんと考えて、ちゃんと喋って下さい。
こっちはちゃんと見てますよ。
聞いてますよ。