「言葉を残そう」

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カテゴライズ出来ない。

地元地方紙の一面に、オバマ大統領と被爆者の方が抱き合う写真が掲載されました。
なんといいますか、…消化しきれない思いが強くあります。
複雑な気持ちになります。
歓迎ムードの日本側、特に被爆者として直接オバマさんと話をした方達のインタビュー等を読むと、どうにもこうにもしっくりこない。
前々回の記事で書いた通り、私個人としては「来るなら謝罪しろよ、しないなら来る意味あるのか」という意見なので、「オバマに会えて良かった」「やっと理解しあえた」という気持ちしかないようにすら見て取れる姿に、穿った見方をしてしまう自分がいます。
何もそれは、私の意見が正しい、私が理解出来ないのだから、変だ!と思っているわではありません。
ただ単純に、実際核爆弾を落とされて、家族、友人、己も含めて色々なものを失った経験が、70年経ってどういう感情に変化したというのだろう?という驚きと、

被爆者である自分が死ぬ前に、核を使った敵国の代表と会うという歴史的事実をもって、積年の恨みでしかなかったこの70年間に一旦ケリをつけ、前向きな和解と平和への発展の足掛かりとして捉えよう」


「…という事にしたい」


だけなんじゃないだろうか、という狂気すら感じる自虐。…やはりこれは言い過ぎなのでしょうか。しかしそんな風に考えてしまうほど、オバマ大統領と硬い握手を結び、熱い抱擁を交わす姿が私には理解できないのです。どういう種類の感情なのでしょう。彼らは拉致被害者ではありません。70年ぶりに家族と出会えたわけではありません。核爆弾をその身の上に落とされた人達です。「やっと会えた、やっと殺せる」ではなく「やっと会えた、平和に向かって共に歩もう」、となぜ思えるのでしょうか。
新聞を読んでいた時側にいた人間に、「どう思う?」と聞くと、「大人の対応というやつです」という答えが返ってきました。
そうなのでしょうか。
70年経つと、憎悪や憤怒は消えるのですか?
その熱情に勢いはなくなったとしても、悲しみという思いは、消えないのではないでしょうか。
先ほども書いたように、私が理解出来ないからと言って、こんな広島訪問は間違っている!と声高に叫びたいわけではありませんし、被爆者の方達が気分を害されても申し開きが出来ないので、あくまで個人的見解であり、そういう風に見てしまう捻くれた人間なのです、という事だけ念押ししておきます。



普段新聞自体読まないダメな大人代表の私ですが、今回ばかりは、所謂「賛否両論」というやつを読みました。
しかし賛成側の意見といっても、あくまで「来ないよりは来る方が良いよね」程度の評価であり、今回の広島訪問の全てを肯定している意見などは見受けられませんでした。そこは少しほっとしました。
オバマさんも、ここへ来て特に目新しい事を言ったわけではありません。
戦争はいけない、核は撤廃していきたい、共に平和を目指しましょう。
そんな事は改めて言われるまでもなく日本人なら誰もが持っている基本的な信念ですから。
賛成的な意見の一つに、「来る事に異議がある」と評する向きもありますが、そこに続く「何故ならば」がどこにも書いていないので、やはり理解できませんでした。戦争を早期終結に導いたという意味では核爆弾投下を評価する、という考えが根強いアメリカの代表が、平和を願う敗戦国にやって来て、演説する事のどこに「意義」があるのか。誰か馬鹿な私にも理解できるように教えて欲しいです。
決して煽っているわけでも挑発的な意見を書きたいわけでもありません。
本当に教えて欲しいです。
そして私と同じように、「結局誰にでも言える事を言っているだけだ、オバマが来た、嬉しい、だけでは駄目だろう」という否定派(これが否定派なのか分かりませんが)の意見も意外に多く、私だけ変わり者という訳でもないのだな、と改めて思いました。


ただ誤解されたくないのは、アメリカの全てを否定しているわけでも、オバマさんを個人的に敵視しているわけでもないという事です。
一人の人間として、平和を希望するのは当たり前の事であり、言葉にして発信し続ける事に意味はあると思います。
発する言葉の強さで言えば世界最強クラスの影響力を持つ男です。
どんどん信念を言葉にして伝えて行けばいいと思います。
アメリカの大統領が世界平和を祈るなんて馬鹿げている。信じられない」と、そんな事を思っているわけでは、決してありません。
しかし、繰り返しになってしまいますが、とても冷めた目で見ていた私にとって今回の広島訪問は、そんなに大事な事だったのでしょうか?という気持ちが強いです。
これが、「アメリカ大統領、広島・長崎に対して、初めて謝罪の言葉!」なんて見出しの号外が作られるような内容であれば、大いに意味があり、歴史的訪問だったと思うわけですが、そんな機会は永遠にやって来る気がしません。何故ならば、…それは前々回の記事に書いてあります。

もし、私がアメリカ大統領だった場合。



「戦争を終わらせる為の戦争が存在します。侵略者に対抗するための戦争が存在します。テロに屈しない為の戦いがあります。大切な国の大切な人を守る為に、人を打ち倒す事が、結果あると思います。それは全て、平和を勝ち取るとるための戦いとは言え、例えどんな理屈や建前を述べた所で、所詮は他人の犠牲の上にしか存在しえない物なのかもしれません。現在私が思い描ける平和を作り上げるには、人の死が必要不可欠です。それがアメリカの力の行使であり、アメリカの平和であり、世界の秩序を保つことに繋がります。しかし、真の平和とは、私一人の頭の中だけでは思い描けない途方もない世界の事だと考えます。誰も死なず、誰も飢えず、誰も欺かず、誰も泣かない。そんな、今この地上のどこにも存在しない世界を勝ち取るためには何が必要でしょうか。それは私一人では思いつきません。どうか皆さんも一緒に平和を考えましょう。ただし、一つだけはっきり言える事があります。それは、私が持っている核爆弾のスイッチが、平和という明かりを灯す為のスイッチではないという事です」


…みたいなピースフルな原稿を自分で書いて世界に発信し続けるでしょうね。
思ってもない事だけらけなのは百も承知で。
…腹黒いですか?
しかし、現実をちゃんと見つめると、割り切らざるを得ない事だと痛感しますし、認めたくなくとも、誰もが理解している事だと思います。
核が必要か否かなど考えても仕方がありません。もう存在していて、爆弾としての破壊力と影響力を世界中が知ってしまった。もう、核が無かった頃の世界には戻れません。仮に保有している国がアメリカだけなら後戻りする事も出来ましたが、もう遅いのです。
表では世界に向けて平和を祈ります。
バランスを保たなければ、この世界が何度も何度も滅ぶ程の核爆弾が、既に地球上に存在するからです。
そしてアメリカも、その他の核保有国も、全世界から一斉に核爆弾が消滅するマジックに引っ掛かりでもしない限り、放棄することはないと思います。


今回の広島訪問にしても、世界政治におけるパフォーマンスの一つに過ぎないと私は思います。例え心から世界平和を祈っていたとしても、武力の放棄、核の撤廃は、したくても出来ない、叶わない夢なのだと思います。
死に物狂いで、この世界のバランスを取っていくしかない。アメリカにはその力があるし、そこは本当に頑張って欲しい。ただ、格好だけつけて、広島で神妙な顔して握手をガッチリ交わした所で、私はそんなもの信用しませんよ、という事です。そこに本心などない、オバマさんは今、アメリカを中心とした世界政治を頑張っている、ただそれだけだと、私の目には映っています。