寂しい時代に突入

まだマイケル・ジャクソンの死を引きずっている。ニュース番組でも、彼の急逝間際のリハーサル風景が流され、ゴシップ誌では薬物乱用などの記事が掲載され世間的にも彼の死の影響が大きい事を物語っている。しかし自分が30歳になって思うのは、マイケルのような天才がこの世を去った事に対する考察などどうでも良く、自分の人生を彩ってきたスター達の死がとても痛烈に、また連続して起きる事に対する悲しみが大きいという事。一昔前であれば、所謂スターがこの世を去ったと知ってもそれほど感慨深くはなかったのが、いかりや長介さん辺りから、自分が世間並みに悲しんでいることに驚き始めた。そんなに好きだったっけ?と思ったりもしたが悲しいものは悲しい。何故なら、彼らは、いかりやさんもそうだし忌野清志郎さんもそうだが、当然のように既に自分の人生の中にあって、ずっと存在し続けるものという超常的な認識があったからだ。もちろん漠然とだけれど、死というものがそんなにいきなり、すぐそこに迫っているような気配は全く感じておらず、これからも笑い、こらからもロックスターとして「在り続けるような」気がしていたのだ。実際そんなわけはないのだけれど、これが時代というものなのかもしれない。自分より10年若い世代には、まだこの感覚は分からないだろうけど、いずれ時が流れ、いつかは安室奈美恵宇多田ヒカルがこの世を去る時も来るわけだ。その時になってようやく、今の自分の気持ちが理解してもらえると思う。年齢は全く違うし、国も、文化も違うけれど、80年代から90年代初頭、マイケルの全盛期、自分は背伸びしたい盛りのガキンチョではあったけれど、彼のカリスマ性やスター性をキラキラした目で見つめて、共に同じ時代を生きたのだ。彼が世界のマイケル・ジャクソンとしてKing of Popになり、史上最高の売り上げ枚数を記録し、時に怒り、時に微笑み、全身でエンターテイメントしていた時代を、(僅かな誤差はあったにせよ)共に生きた。マイケル・ジャクソンにとって自分の存在など無関係だけれど、自分の人生においてはマイケルという存在は無関係ではなかった。いかりやさんも、清志郎も、マイケルも、皆自分の人生の一部だった。彼らが次々にこの世を足早に去っていく。ついに、そんな時が訪れたのかと思うと、言いようのない寂しさに囚われる。
寂しい時代に突入した。