インターネットで世間に参加すること。

前回記事にした長谷川豊さんのブログでしばしば見受けられる言葉、ノイジーマイノリティー

『「うるさい」・「騒々しい」といった旨が語源であり、主張に理論的ないし道義的裏付けが乏しく「声の大きさ」に任せて騒ぐだけの少数者を指し、批判的な意味合いが強い。

その過激かつ積極的な姿勢のため、実際には少数派であるにもかかわらず、穏健かつ消極的な多数派よりも目立つ傾向がある。実質的にクレーマーと同等の意味合いを持つ』(Wikipediaより抜粋)

マイノリティーが確か少数派ですよね。うるさい少数派、ってことですね。子供の頃、クラスに一人はいたなー。普段からやかましい男子生徒が、一見無茶苦茶で、傍から見れば間違っていると分かる意見や主張を押し通すために(後には引けなくなって)、甲高い声で「絶対これってこうだよなー!」とクラスメイトの顔を見渡しながら自信満々に言う。目のあった周囲の生徒や、もともとの取り巻き連中らは苦笑いで顔を見渡しなんとなく同調してしまう。勢いに呑まれるんですよね。
この流れというか、こういう光景は確かに見ていて私も気持ちが悪かったですし、嫌いでしたね。ただこのクラス内におけるパワーバランスというか、目に見えて行われる同調圧力って、大人になればパワハラになりますが、そんなに力関係が確立していない子ども同士でも普通に行われていた事を思い起こすと、ちょっと不思議ですよね。
なんとなく、「いや、それ違うだろ」と言い出せない空気が一度出来上がってしまうと、なかなか反論には勇気がいる。
周囲の流れと、自分の意見が食い違った時、面と向かって、声に出して反論できる人って、本当に強い人だと思います。

インターネットが生活の一部となり、準主役くらいのポジションに躍り出て、自分の言葉を世間に出しやすくなりました。
顔の見えない環境が、軽はずみで浅はかな言葉を発してしまう原因となっている事は言うまでもないと思います。
しかし、誰でもが簡単に言葉を発信できる時代において、ネットに流れる言葉全部が、うるさい少数派とは限らなくなってきているのも事実だと思うわけです。


ネット上に出ている言葉=ノイジーマノリティー=間違っている=クソども。
長谷川さんは度々この図式を使います。
今話題の「不謹慎狩り」についての怒りの記事などもそうです。
あ、その前に一つ。
「不謹慎狩り」って言葉おかしくないですか?親父狩りは親父を狩るんですよね。じゃあ不謹慎狩りは不謹慎な人を狩るんですよね。言葉だけで行けば正しい人ですよ。不謹慎を連発し、タレントや著名人を攻撃する事を楽しんでいる人、に名前を付けたいならそれこそ「不謹慎中・もしくは不謹慎厨」の方が分かりやすいと思います。

脱線しました。
確かに、そういう、暇で下品な人たちも大勢いるでしょうね。ツイカスとかバカッターとか、それこそ単に憂さ晴らし目的とか。
それはノイジーだと思います。
しかし本当にマイノリティーかどうか、そして一見口汚く幼い下品な言葉遣いに隠された、言葉の中身は本当に間違っているのか。
そこはどうやって判断されているのだろうか、常々疑問に思っています。


Aという現象に対してBという意見が出たとします。
そのBが子供じみた暴言に見える言葉遣いだったとします。
AとBの現象だけを見ると、Aが被害者でBが加害者に見えます。
Bの言葉遣いが荒々しく暴力的で批判的だからです。
そうなってくると、なんとく世間はA可哀想、Bはクソだ、となります。そして実際そういうケースも多くあることでしょう。
しかしながら、それを黙ってみていたCも存在します。
Cは勇気がなくて(あるいは興味がなくて)言葉にはしませんが、Bの言ってること分かるなー、と感じています。
Aってもともとイメージ良くないしなー、言葉は悪いが、Bも核心突いてるよなー。という立場です。
この場合、どれがノイジーマイノリティーですか?
主に長谷川さんはBを嫌っておられます。
ノイジーですからね。そしてAの擁護をしながら、Bを罵倒します。
しかしそれを見ている人間の中には、いろんな意見を持った人がいます。
それこそCのような人。もしくはD、あるいはE…。
ネット上に言葉を上げないだけで、Bに賛同する人は、Aを擁護する人と半々かもしれない。それでもBはノイジーマイノリティーなのでしょうか?


不謹慎狩りに話を戻すと、こういう震災の時にはよく出てくるそうです。
色々な方がこの被害にあっている、ノイジーマイノリティーは逮捕しちまえ!なんて言葉を残しておられますが、いったいそれ誰に向かって言っているのですか?
芸能人の名前をいくつか挙げて、こういう馬鹿な不謹慎狩りがあった、と仰ってますが、その芸能人達を「不謹慎だ!」と責め立てたのが同じ人間だとは限らないわけで、一緒にしてほしくないとすら思っているかもしれない。
長澤まさみさんがインスタに写真を上げるのはかまわないが、紗栄子さんの件はだめだろ」、とか、「紗栄子さんは実際お金出してんだからいいけど、矢口さんはまだダメでしょ」とか、各々が色んな意見を持っているかもしれないし、よくよく話を聴けば意外とマイノリティーじゃないかもしれない。
というのも、「わざわざ責める奴も暇人だけど、この時期になんでわざわざ誤解受けるような事するかね、黙ってこそっとやってれば、格好良かったのにな」という一歩引いた中立な意見も多い気がします。
それでも、芸能人がこういう責められ方をすると、ノイジーマイノリティーが叫んでるだけだ!クソが!便所の落書き連中が!馬鹿が!
と一括りにして斬り返す。

ヒステリーが過ぎやしませんかね。
ましてや前回も書いた山中さん炎上の件でも、同じくノイジーマイノリティを責めています。いやいやちょっと待ってくださいよ。今回、ツイッターを攻撃するかどうかは別として、「山中さんおかしよそれ」、と思った人達、結構多いと思いますよ。
長谷川さんの頭の中ではすでに、
「匿名で」「ネットに」「誰かを非難する」「幼い言葉を上げる」
という条件が揃うと全てのいじーま面倒くさいノイマイになるみたいですね。それって報道記者として危険ではないですか。
自分や自分の身内、近しい環境にある人間が責められたら、ノイジー
言葉遣いが綺麗ではないイコール、マイノリティー
そうなっている気がします。

肝心の中身を精査する意識はどこへいったのでしょう。
今回バッシングを受けたタレントさん達が結構いることから、こういう事態を楽しんで日頃のストレスを発散してるだけなんだろうという見方になる事もわかります。事実いるでしょう。
しかしすべてがそうだと断言できるはずもないし、今回本当に落ち度のあったタレントさんも、いるかもしれない。

世の中の意見に面と向かって逆らうことはとても勇気がいります。
本来そこにはそれ相応の信念がないと、とても出せない勇気です。
ネット社会はそういう勇気のない者でも簡単に意見を発信できます。
単純に天邪鬼な人もいます。逆張りして反応を楽しみたいだけの人。
色々います。色々いるからノイジーです。しかし色んな言葉がある中で、少数派とか多数派とか、考え出しても意味ないと思います。
その言葉を受けてどう反応するか、どういった態度で言葉を返すか、または返さないか。
そこをみんな見ていると思いますし、そこが重要だと思います。



連続して長谷川さんに物申す、みたいな投稿になってしまったので、
しばらく似た内容の記事は書かないようにします。