「言葉を残そう」

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解放出版社刊 「浸蝕」 土方鉄著

1972年出版だから俺の生まれる7年も前。37年前。
数年前古書店で手にし、そのおどろおどろしい表紙からホラーかと思い、古く変色したページを捲り、匂い立つその本の記憶に引かれて購入した。読んでみて初めてその内容が想像していた物語と全く違う事に気づいて、ドキリとした。今にして思えば「解放出版社」というだけで予想はできるが、当時はまだ書店に勤め始める前で知らなかった。
差別、被差別部落問題。誰しも学校の授業で通る道ではあると思うが、しかしそれでも、「だから何が残ったか」と問うと、ズバリ答えられる人間などそうはいないんじゃないかと思う。もちろん、中身なんてない、という事でもない。自分がそうだから、思いたいだけなのかもしれないが、どういうアプローチでこの世界に踏み入ろうとしても、やはりそれは外側から見た「勉強」や「道義」的な立ち居地でしかなく、結果何も残らないのだ。
誤解を恐れずに言う。
被差別部落・部落問題」と口にする時、あるいは思う時、心の中に表現出来ない黒い靄が発生する。
基本、学校の授業で習う内容といえば、「その成り立ち」「原因」「廃止」「近・現代に残る実際」「イコール、無くしてしまわなければいけない」という流れだけであって、もうそれは机上で「戦争」を語る勉学の域を出ない。
しかし戦争を思う時、ただそれだけで黒い靄など発生しない。少なくとも、自分はそうだ。確かに、以前訪れた原爆ドームでかつてない痛みを感じて何かを残さなければという脅迫観念に襲われて、絵本を買ったりした。広島へはロックバンドのLIVEを見に行ったのに、絵本を買って帰ってきた。若い、青い。
自分なりに頭を悩ませ、考える事が大事なのだと言われれば、そこに向かおうとする姿勢だけでも評価するべきものはあるかもしれない。しかし自分にはそういう「正義」的な気持ちにさえ到達してないように思える。
分からない。人間は分からないものが怖い。不安に襲われ、逃げたくなる。
おそらくはそんな種類の、黒い靄である気がして、落ち着かない気持ちになる。
「浸蝕」自体は、論文や批判の書ではなく、驚く程ストレートな「物語」だった。黒い靄の中にいる、そこで生きている人間達の話だった。
この作品を読んで、少し、黒い靄の中に踏み入った気がして、何度も読み返した。

そしてつい先日発売になった、
講談社刊「差別感情の哲学」中島義道
を購入してみた。時間がなくてまだ読めていないけれど、この本が更に自分の中の黒い靄を薄くしてくれる事を期待している。

好奇心? 違うなー。
知識欲? うーん。
こればかりは何故か、そこを分け入って何かを求める理由が自分でも分からない。ひとつ答えを見つけたいだけかもしれないし、他にも何か気付くかもしれない。ただひとつ思うのは、差別や部落問題が、決して外側から見て研究するような歴史ではなく、言ってしまえば人間誰しもが抱える葛藤と向き合う事柄だということだ。社会的な解決や好転を望むというよりは、自分の中にあるこの問題に対して自分なりの正体を掴んでおきたいと望む気持ちに近い。
今自分の周りにそれらの問題があるとか、自分自身が渦中になるとかではないけれど、きちんと考えて生きる人間でいられるように…修行?は?違うな。ここらへんがはっきりしないのだけれど。